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根強くささやかれる孝明天皇の毒殺説の真偽とは?

史実から振り返る今週の『青天を衝け』


7月4日(日)に放映された『青天を衝け』第21回では、渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)のその後を決定づける、パリへの旅立ちが描かれた。渋沢が新たな世界へ期待に胸を膨らませる一方、国内では幕府終焉の予兆を口にする者が出始めていた。


慶喜の命によりパリへと旅立つ

 

孝明天皇の御陵「後月輪東山陵」がある京都市の泉涌寺

 パリで開かれる万国博覧会に弟の徳川昭武(とくがわあきたけ/板垣李光人)を派遣することを決めた徳川慶喜(草彅剛)。慶喜は、御三卿の一つ、清水徳川家を昭武に継がせることで将軍の名代としての箔を付けて、昭武を派遣することにしたのである。

 

 しかし、それに随行するのは水戸藩士であった。彼らはいまだ攘夷論者であり、昭武を渡仏させることにも反対していた。渡航先で問題を起こしかねない水戸藩士らの監視役として抜擢されたのが渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)であった。会計や雑用をしながら、水戸藩士の暴走を抑えること。それが篤太夫に与えられた新たな使命であった。そして、これが慶喜直々の人事と知り、目の前が急に開けたような気持ちになった篤太夫は、この任務を即座に引き受けたのだった。

 

 そんななか、国の安寧(あんねい)を願って御神楽(みかぐら)を行った孝明天皇(尾上右近)が急に体調を崩し、御神楽から二週間後に崩御。慶喜を将軍とし、いよいよ朝廷と幕府が一丸となって日本をまとめあげていこうとしていた矢先の出来事であった。

 

 一方、5年はかかるとされた洋行の前に、渋沢成一郎(=喜作、高良健吾)や尾高長七郎(満島真之介)と再会した篤太夫は、自分が帰国する頃には、今よりももっとよい世になって欲しいと願い、心を新たにするのだった。

 

いまだ決着をみない孝明天皇の謎の死

 

 いみじくも、ドラマの中で小栗忠順(おぐりただまさ/武田真治)や慶喜が語っていたように、幕府は長くは持つまい、と考える人物がこの頃の幕閣の中にも少なからずいたことは事実のようだ。その要因の一つといえるのが、孝明天皇の崩御だろう。

 

 孝明天皇が大の外国嫌いであったことは広く知られる。日本の地に外国人が足を踏み入れることを毛嫌いしていた孝明天皇は、種痘を接種していなかった。種痘とは、天然痘に対するワクチンであり、孝明天皇は自分の身体にそうした異物が入ることも嫌ったのである。後の明治天皇となる睦仁親王(犬飼直紀)がすでに種痘を打っていたのはドラマにも描かれていたように事実で、天然痘に感染した孝明天皇の病床に見舞いに行っても平然としていたのには、そういう理由がある。もうろうとなった孝明天皇が「種痘か……」とこぼしたのは印象的なシーンだった。

 

 ところで、ここで一つの疑念が生じる。

 

「九重の内」と呼ばれるほど、俗世間とは隔絶された御所で生活していた孝明天皇が、なぜ感染症に罹ったのか、ということだ。御所の外には滅多に出ず、御所内ですら、ほとんど御簾(みす)の中にいて他人と接触することの少ない天皇が、なぜ感染症に罹患するのか。

 

 孝明天皇の死によって、幕末における立場を大逆転させた藩がある。それが長州藩だ。長州藩は孝明天皇に激しく敵視され、二度にわたる長州征伐を命令されるほどの「朝敵」であった。ところが、孝明天皇の死後、朝廷内は薩摩藩と策謀をめぐらす岩倉具視(山内圭哉)らが実権を握るようになる。長州藩が薩摩藩と手を組み、討幕に突き進んでいくのは周知の通りだが、そうした動きを推進したのは、ことのほか長州を嫌っていた孝明天皇がいなくなったことと決して無関係ではない。

 

 当時来日していたイギリスの外交官であるアーネスト・サトウは、自身の日記(『一外交官の見た明治維新』)にこう書き残している。

 

「当時は、彼(孝明天皇)は天然痘で亡くなったと伝えられたが、そのときの舞台裏をよく知っていたある日本人は数年後、確信をもって彼は毒殺されたのだと教えてくれた」

 

 孝明天皇が高熱を発して倒れたのは、1866(慶応2)年121214日の間とされる。15日には天然痘の病状が明らかとなったが、21日には軽症と診断され、快方に向かっている。27日には、全快を祝う祝宴が予定されていたといわれている。

 

 ところが、不可解なことに25日に急変し、崩御してしまう。ドラマの中で岩倉が「病は治ると言うてはったやないか!」と激高していたのは、このためだ。ちなみに孝明天皇の崩御が公式に発表されたのは、29日のことである。

 

 こうして見てみると、長州藩あるいは、それに連なる人物が暗殺を企てた、という結論に飛びついてしまいそうだが、それはそれで早計だ。

 

 孝明天皇の毒殺説は根強くささやかれてきたが、1990年に入り、名城大学の原口清教授が、孝明天皇の容態を克明に記録した『御容態書』を丹念に調査したところ、天然痘による病死の可能性が高いとした論文を発表。この論文により、孝明天皇はたまたま感染したのだ、とする見方が強まったのである。

 

 もちろん、これに反論する学者もおり、決着のついた議論とまではいえない。しかし、孝明天皇の死が長州藩の立場を明らかに変え、討幕の動きを加速させたのはまぎれもない事実である。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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