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土方歳三に取り押さえられた大沢源次郎は実はおとなしく捕縛されていた!

史実から振り返る今週の『青天を衝け』


6月27日(日)に放映された大河ドラマ『青天を衝け』第20回では、いよいよ一橋慶喜(草彅剛)が将軍に就任し、期せずして幕臣となった渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)の苦悩が描かれた。今回のハイライトともいえる、大沢源次郎が捕縛されるくだりは、史実とは若干異なっていたようだ。


一橋家家臣から、幕府の御家人へ

京都市にある大徳寺の参道。大沢源次郎が潜伏していたのは大徳寺境内にある塔頭とも、周辺にあった別の寺ともいわれている

 今回の放送は、十四代将軍・徳川家茂(磯村勇斗)が急逝するところから始まる。幕府の重臣たちの間では、次期将軍に一橋慶喜(草彅剛)の名前が急浮上。その話を聞いた篤太夫(=栄一、吉沢亮)は、慶喜に将軍職相続を思いとどまるよう嘆願したが、慶喜は篤太夫の声にただ耳を傾けるだけだった。

 

「徳川の世は、滅亡するよりないのかもしれぬ」。そう言って将軍就任を固辞し続けた慶喜だったが、幕府内の高まる声に抗しきれず、ついに決意。孝明天皇(尾上右近)からは、新たな将軍として、必ず長州藩を討つよう念押しをされる。

 

 第二次長州征伐を家茂から引き継ぐ形となった慶喜だったが、戦況は当初こそ善戦したものの、やがて劣勢となり、撤退を余儀なくされた。慶喜は早々に和睦締結を進め、長州への密使に勝麟太郎を派遣。あまりにも早い幕引きを図った慶喜の采配に、合点のいかない家臣も少なからずいた。同時に、幕府の著しい権威の失墜が浮き彫りとなったのである。

 

 慶喜が将軍職を相続したことに伴い、篤太夫らは一橋家を離れ、幕府の御家人として召し抱えられることとなる。篤太夫や渋沢成一郎(=喜作、高良健吾)らは、幕府陸軍奉行所で働くこととなった。篤太夫らの立場では、将軍となった慶喜にお目見えがかなうはずもなく、篤太夫と成一郎は仕事に張り合いをなくしていた。

 

 そんなある日、篤太夫は、謀反の疑いのある御書院番士の大沢源次郎(成田瑛基)捕縛の任務が与えられる。篤太夫の護衛役となったのが土方歳三(町田啓太)ら新撰組だった。

 

 土方は、大沢は危険人物だから、自分たちが踏み込んで捕縛し、その後に詮議をしてはどうか、と提案するが、篤太夫はあくまで奉行の名代(みょうだい)として行くのだから、まずは自分が直接、奉行の命を大沢に伝えるのが筋であると反対した。

 

 潜伏先を訪ね、奉行所から来た旨を伝えると、大沢は慌てて逃げ始め、護衛していた武士らに篤太夫は斬りかかられる。間一髪のところで土方らが助勢し、篤太夫は事なきを得た。篤太夫の堂々とした振る舞いに感服した土方は、篤太夫が自分と同じ武州の出自であることを知ると、意気投合。二人は心を通わせ合うのだった。

 

実はおとなしく捕まった大沢源次郎

 

 十四代将軍・徳川家茂が亡くなったことで、幕末はますます風雲急を告げることになる。

 

 渋沢の自伝である『雨夜譚』(あまよがたり)によれば、この頃、慶喜の側近は黒川嘉兵衛から原市之進へと交代している。慶喜が将軍職を継ぐとの噂が流れた際、渋沢は原にさんざん「相続の事は切に御止まりにならんことを願いたい」と訴えたと振り返っている。その意見に喜作も同意しており、そしてまた、原も賛成だったようである。原は、慶喜の御前で言上できるよう手はずを整えてくれたようだが、渋沢によれば、拝謁(はいえつ)が叶うことはなかった。慶喜がすぐに大坂に下ったからである。ドラマでは、渋沢が慶喜に直接訴えていたが、仮にこのようなシーンが実現していたら、あるいは歴史が変わっていたかもしれない。

 

 さて、今回のドラマのハイライトの一つといえば、大沢源次郎の潜伏先に渋沢が踏み込む場面だろう。

 

 先述した渋沢の自伝である『雨夜譚』にも、この一部始終が出てくる。同書によれば、渋沢はこの頃、慶喜が将軍職を継いだことで仕事にやる気がなくなり、朝の出勤も遅くなりがちで、本ばかり読んでいたようだ。

 

 ドラマでは、そんなところへ大沢捕縛の話が持ち上がって、渋沢は思いがけず任務にあたったように描かれたが、同書によれば、「自分はそんな事が好きだから、ようござります、参りましょう」と、久しぶりに心を躍らせる仕事に張り切って出掛けていった様子が描かれている。

 

 ところが、大沢はすでに寝ており、寝間着で出てきたらしい。当然、ドラマで描かれたような大立ち回りはなく、大沢はほとんど抵抗することなく、おとなしく縛に就いたようだ。

 

 さらに奇妙なことに、『雨夜譚』での渋沢の回想によれば、この時、新撰組で随行したのは土方ではなく、近藤勇であった。『雨夜譚』は1887(明治20)年に発表された渋沢の自伝であるが、大正年間に雑誌に連載された、渋沢の談話筆記である『実験論語処世談』には、近藤が所用のために行かれないから代理で土方を派遣した、とあり、同じエピソードの登場人物がなぜか近藤から土方に変更されている。

 

 なぜ後になってから、近藤から土方に修正されたのかは分からないが、いずれにせよ、期せずして幕臣となってしまった渋沢。この頃、実家に帰って農民に戻ることを本気で考えていたのは事実のようである。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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