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万国博覧会で日本はグランプリを受賞していた!

史実から振り返る今週の『青天を衝け』


7月11日(日)に放映された『青天を衝け』第22回では、パリに到着した渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)が、世界最先端の技術の数々を目の当たりにする。あれほど敵視していた異国の地で、篤太夫は持ち前の好奇心を発揮し、見聞を広めていく。


西洋の科学技術や制度に驚嘆する

 

パリのアンヴァリッド廃兵院。負傷した兵士のリハビリ施設で、ナポレオン一世や二世の墓もある。後に渋沢は、ここで西洋の福祉制度に感銘を受けたと語っている。

 

 55日間にわたる船旅を経て、篤太夫らはパリへとたどり着く。さっそく万国博覧会の会場を視察すると、蒸気機関やエレベーターといった最先端の技術を見せつけられ、篤太夫は感嘆しきりだった。「参った!」。自分の小ささを嘆くどころか、「夢の中にいるみてぇだ」とかつて敵視していた外国に、畏敬と羨望の目を向けるのだった。

 

 そんななか、博覧会の場で日本のブースとは別に、薩摩藩の家紋が掲げられた琉球王国のブースが設けられていることに驚いた一行。先にパリに到着していた薩摩藩の岩下佐次右衛門(俵木藤汰)に事情を問いただした。すると、薩摩藩のもと、琉球王国の博覧会委員長を務めていたモンブラン伯爵(ジェフリー・ロウ)が、琉球王国ではなく、大君(将軍)の格下である「太守」とつけて、「薩摩太守」の出品としてはどうか、と提案したというのだ。やむなく幕府側はこれを受け入れ、幕府からの出品に「大君グーヴェルマン」、薩摩の出品に「薩摩太守グーヴェルマン」と表記されることになったが、これが大問題に発展する。これはすなわち、「大君政府」「薩摩太守政府」を意味するものであり、日本には「大君」と「薩摩太守」といった2つの権力機構があり、両者は同格であると認識されたのだ。

 

 フランスの新聞に「日本は一つの国家ではなく連邦国」「将軍とは、日本の中の有力な一大名にすぎない」などと報じられ、「薩摩とモンブランの策略だ!」と一行は激怒する。

 

 一方、日本では徳川慶喜(草彅剛)がフランス公使レオン・ロッシュ(ディディエ・ケアロック)との結びつきを強めていた。ロッシュの助言のもと、慶喜はさまざまな改革に着手。それらは、これまでの幕府には見られない革新的なものだった。薩摩藩の島津久光(池田成志)やイギリス公使のハリー・パークス(イアン・ムーア)らは、慶喜の手腕に「徳川は持ち直すかもしれない」と危機感を覚えるのだった。

 

 そんなある日、慶喜の実弟で一行の主君である徳川昭武(板垣李光人)は、篤太夫の取りなしで、高級なホテルから家賃の値下げ交渉をした住居へと移り住んだ。篤太夫は幕府からの送金が途絶えたことを懸念し、対策を講じたのである。

 

 そこへ、杉浦愛蔵(志尊淳)が血相を変えてやってきた。「フランスからの借款が消滅した」という。幕府が頼みの綱としていた600万ドルが消え失せたことで、篤太夫は言葉を失ったのだった。

 

万国博覧会には佐賀藩も参加していた

 

 篤太夫らのパリ行きの表向きの目的は、万国博覧会への参加による日仏親善であった。

 

 この頃、幕府はフランスから陸軍の軍事顧問を招聘するなど、フランスとの関係強化に努めている。小栗忠順(武田真治)が、フランスから軍艦三艘(さんそう)と軍資金を借りて薩摩藩を叩き潰そうと計画していたというのも、幕府とフランスとの関係性を物語る一例といえる。

 

 一方、薩摩藩はイギリスとの距離を縮めていた。当時、イギリスとフランスとは対立関係にあり、両者は日本での主導権を握るためにしのぎを削っており、こうした状況を薩摩藩が利用し、イギリスを味方につけたのだ。

 

 モンブラン伯爵はフランスの貴族だが、彼が薩摩藩の肩を持っていたのは、幕府に対する腹いせだった。ドラマ中のセリフにもあるように、モンブランは当初は幕府に協力しようと申し出ていたが、無下にされたことを根に持っていたのである。

 

 万博への出品物は、幕府が各藩に出品を要請し、集めたものが並べられた。ドラマとは違い、実は、日本と薩摩藩、そして佐賀藩も出品していた。もっとも、佐賀藩は幕府の出品物の一部としての体裁を守ったので問題にはならなかったようだ。

 

 しかし、「大君グーヴェルマン」「薩摩太守グーヴェルマン」と並び、「肥前(佐賀)太守グーヴェルマン」と紹介されたことで、フランスの報道機関に「日本はこれまで我々が考えてきたような絶対的な帝政国家ではなく、封建領主の連邦国家であった」と報じられることになる。幕府の裏の目的として、万博への出品によって幕府の権威を国内外に示そうと考えていたようだが、この目論見は薩摩の策略により失敗し、海外においても幕府の威信の低下が露見することとなった。

 

 ところで、出品物についての日本の評価はどうだったのか。

 

 日本と同じ区画に出品したアジアの国は、シャム(タイ)と中国だった。ドラマで描かれたように、3国は明確に区別されていたわけではなく、日本とシャムの出品物を混同していた客もいたという。つまり、西洋ではいずれも同じ国のように見えていたようだ。

 

 そんななか、日本の出品した「和紙・絹製品・漆器」がグランプリを受賞している。万博ではグランプリ64件、金メダル883件、銀メダル3653件、銅メダル6565件、佳作5801件が発表されているが、正式な国際デビューを果たした日本にとって思いがけなく誇らしい結果を得られた、といえるだろう。ちなみに、中国とシャムはグランプリには届かなかった。

 

 この万博の数年後、パリには「ジャポニスム」、いわゆる日本ブームが訪れる。特に人気が高かったのは華やかな着物や浮世絵だったという。万博において幕府は、政治的メッセージの発信には失敗したものの、国内の産業や芸術の世界的な進出には、期せずして成功していたのである。

 

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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