渋沢栄一は明治当時「木戸孝允」をどのように見ていたのか?
渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち③
西郷隆盛、大久保利通と並び、維新三傑のひとりとして知られる木戸孝允(きどたかよし)。同じ時代に生き、日本経済の発展に尽力した渋沢栄一は、明治政府の樹立にその生涯を捧げた木戸についてどのように見ていたのだろうか。数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残してきた渋沢の言葉から、その印象を紐解く。
朝敵から新政府のリーダーへ上り詰める

東京都文京区にある湯島天満宮。パリから帰国した渋沢は、しばらく静岡に住んだ後に政府の求めに応じて上京。東京での住まいに選んだのが湯島天満宮のそばだった。
木戸孝允は、1833(天保4)年に長州藩の藩医の家に生まれた。8歳の頃に長州藩士・桂家の養子となり、家督を継いでいる。「木戸孝允」の名は明治維新後に名乗ったもので、幕末当時は「桂小五郎」が彼の名だった。
17歳の頃、吉田松陰(しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に入門して兵学を学ぶ。松陰からは「事をなすの才あり」と評されるほど、抜きん出た資質を持った人物だったようだ。
20歳の時には江戸に遊学。江戸を代表する道場である練兵館(れんぺいかん)で剣術修行に励み、塾頭となるまでに至った。
そんな桂にとって分岐点となったのは、ペリーによる浦賀来航を間近に見たことだった。巨大な大砲を備えた黒船に衝撃を受け、国防の重要性に目覚めたのである。桂はすぐさま、西洋兵学や造船術など新たな知識を取り入れることに躍起になった。
松陰の強い推薦によって藩上層部に抜擢された桂は、朝廷や諸藩との外交を担当。開国や攘夷などさまざまな思想に触れるようになり、その結果、桂は同じ松陰の門下生である久坂玄瑞(くさかげんずい)や高杉晋作らとともに尊王攘夷運動にのめり込むようになっていく。
ただし、過激な攘夷思想に走る久坂や高杉と違い、桂は慎重派で、八月十八日の政変によって長州藩が京都から退けられると、藩の復権のための活動に専念した。命を狙われる危険性が高かったこの頃、桂はさまざまに名前を変えて潜伏しながら、各藩との外交交渉を続けたのである。
第一次長州征伐の後、桂は藩政の中枢に復帰。長州藩の京都追放の引き金となった天敵である薩摩藩と同盟を結ぶという奇策をまとめ上げるばかりか、藩に向けられた「朝敵」の汚名をそそぎ、明治新政府の中心人物として、活躍していくこととなる。
他人と争ってまで自説を通さず、気長に構えていた木戸
「維新三傑」のなかでも、西郷隆盛や大久保利通という強烈な個性に挟まれ、やや小粒と評されることもある木戸孝允。しかし、荒々しい長州藩の面々をまとめ上げた彼の政治家としての手腕こそ、評価されるべき点だろう。桂小五郎すなわち木戸孝允は、渋沢の目にもやはりただならぬ人物に見えていたようだ。
木戸と渋沢が直接対面することになるのは、明治に入ってから。1870(明治3)年頃のことで、明治新政府の実質的な責任者となっていた木戸が、当時渋沢の住んでいた湯島の自宅をわざわざ訪れたという。
この時に木戸は、政府に登用したいと考えている人物のことやフランス留学の時のこと、国内外の情勢など、さまざまな質問を投げかけ、渋沢の考えに耳を傾けたという。
後年、渋沢は木戸の訪問時の様子を、次のように語っている。
「所謂(いわゆる)威あって猛からずといふやうな、至つて慣れ易い所があつて、また時には凛乎(りんこ)として侵がたい所があつた」
つまり、政府の要人であるにもかかわらず偉ぶる様子もなく、むしろ親しみやすい印象を持っており、しかし、時には口を挟ませないような毅然とした迫力を感じていたようだ。
渋沢の談話を書き残した『実験論語処世談』には、次のように記されている。
「何事に接しても時期を待つといつたやうな態度で、縦令(たとえ)自分の意見が行はれぬからとて、他人と争つてまでも無理に之を通さうなぞとはせられず、成行に任せて置き、静に形勢を観望して時節到来を気永に待つて居られたものであるかの如くに思はれる」
これは猛々しい長州藩士らを束ねる際に培われた、木戸ならではの人心掌握術のようなものなのかもしれない。
木戸が、師匠である松陰に送った手紙のなかに、次のような一節がある。
「人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う」
意味としては、他人から学び、優れたところを取り入れ、自分の欠点を補う、といったところだろうか。木戸がいかに謙虚な人物だったかをうかがい知ることができる。
同じく『実験論語処世談』で、西郷や大久保を引き合いに出して、こんな言葉も残している。
「木戸孝允卿は同じく維新三傑のうちでも大久保卿とは違ひ、西郷公とも異つた所のあつたもので、同卿は大久保卿や西郷隆盛公よりも文学の趣味が深く、且つ総て考へたり行つたりすることが組織的であつた。然し器ならざる点に於ては大久保、西郷の二傑と異なるところが無く、凡庸の器に非ざるを示すに足る大きな趣のあつたものである」
その才は人材登用に特に発揮されたようだ。
「人を用ひるに当つても頗る綿密周到を極め、適材を適所に置くことには頗(すこぶ)る妙を得られて居つたものであるかの如くに思はれる」
登用しようと考えている人物について木戸に尋ねられたとの逸話はすでに述べた。この時渋沢は、当該の人物について知ることを口実に、実は自分がどういう人間かをはかりにきたのではないか、と推測している。
人材を適材適所に配置するのは、政治家をはじめ、人の上に立つ者にとって欠かせない能力のひとつ。そのためには、人物の長所や欠点を正確に見極めなければならない。実業家の渋沢にとっても、用意周到に人物を調べて配置していく木戸の手法は、学ぶべきものだったのではないだろうか。