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渋沢栄一の立身出世に大きな影響を及ぼした鹿島神社 ─青天を衝け ゆかりの地─


日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の立身出世に大きな影響を及ぼした神社が故郷である血洗島(埼玉県深谷市)にある。鹿島神社であり、古くから血洗島の人々に愛され、栄一も幼いころより親しんだという。今回はこの鹿島神社の歴史とともに、栄一との関係について紹介する。


 

栄一が母の姿に思いを馳せる鹿島神社

鹿島神社の社殿。天慶年間、平将門追討の際、清和源氏の祖・源経基の家臣・竹幌太郎がこの地に布陣し、祀ったという。、戦国時代、この地を領した深谷上杉氏も戦勝を祈願と伝わる。

 深谷市下手計には、鹿島神社がある。この神社も、渋沢栄一と関係が深く、幼い頃は遊び場でもあった。たしかな史料によると、14世紀頃には鹿島神社の姿が確認できる。以下、鹿島神社の創建の事情について考えてみよう。

 

 鹿島神社近くの中瀬の地は、利根川が流れる河川交通の要衝地だった。舟運にかかわる河岸場が置かれており、北越街道の通路に当たる渡船場があった。

 

 このような立地条件から、利根川の舟運に関係する村人が航海安全の神として、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)を当地に分祀したと考えられている。

 

 ほかに異説もある。下手計・沖・戸森・内ヶ島・田中などの村々は、かつて隣村の大塚島(埼玉県深谷市)に鎮座する鹿島大神社の社領だったという。それゆえ、鹿島神社は、鹿島大神社から分祀したというのである。

 

 ところで、鹿島神社は、少年時代に渋沢栄一の恩師だった尾高惇忠生家から約300m離れた場所にある。境内には、栄一らの有志が尾高惇忠の偉業を称え、「藍香尾高翁頌徳碑」を建立した。

 

 碑は、江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜の篆額、三島毅(中洲:漢学者、東京高等師範学校教授)の撰、書家の日下部東作(鳴鶴)の書によるものである。

栄一らの有志が尾高惇忠の偉業を称え建立した「藍香尾高翁頌徳碑」。篆額は15代徳川将軍であった徳川慶喜によるもの。


鹿島神社の扁額。渋沢栄一の筆によるものである。

 また、社殿の扁額は、栄一の揮毫によるものである。

 

 鹿島神社の境内には、御神木の根元の湧水を引いた共同浴場があった。この共同浴場では、慈悲深かった栄一の母「えい」が病気の人の背中を洗っていたという。母の姿に影響された栄一は、のちに慈善事業に貢献したのである。

 

 鹿島神社は小さな神社ではあるが、若き頃の栄一の成長を育み、後年の立身出世に大きな影響を及ぼしたのである。

  

鹿島神社

[住所]〒366-0002 埼玉県深谷市下手計1145

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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