×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
通販

渋沢栄一は幕末当時「岩崎弥太郎」をどのように見ていたのか?

渋沢栄一が交流した幕末の偉人たち⑦


日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残してきた。そんな渋沢が見た、実業家・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)とは、どんな人物だったのだろうか。


 

幕末から明治を激しく生きた三菱の創始者

東京都江東区にある清澄庭園。岩崎弥太郎の命によって造営された池泉回遊式庭園で、二代目・弥之助、三代目・久弥と三代にわたって改修され、現在のような姿となった。

 岩崎弥太郎 は、土佐藩の地下浪人・岩崎弥次郎の長男として1834(天保5)年に生まれた。幼い頃から学問で身を立てようと、儒学者の岡本寧浦(おかもとねいほ)のもとで学んだ。その後、江戸に上り、土佐藩参政の吉田東洋の門人になっている。

 

 1859(安政6)年に藩の職を得て、長崎に西洋事情の調査に赴く。1867(慶応3)年には藩の開成館長崎出張所に勤務。わずかな期間で主任に昇進している。

 

 1868(明治元)年、出張所が閉鎖された後も長崎に残った岩崎は、長崎における土佐藩の貿易を一手に引き受け、戊辰戦争のための武器弾薬の買い入れなどを行った。

 

 1870(明治3)年、土佐藩から藩船3隻を借り受け、汽船運輸を行う九十九(つくも)商会を大阪に立ち上げた。これが現在の三菱グループの前身となる。廃藩置県によって藩での職を解かれると、実業家に転身。長崎や大阪で培ったビジネス感覚を手がかりに、事業を拡大していくことになる。

 

 1874(明治7)年の台湾出兵の際には、政府より命を受けた軍事運輸を見事に成し遂げ、大久保利通の信任を得る。こうして三菱の事業は海運業のみならず、郵便物の輸送や外国定期航路の開設などにも発展。国内最大の汽船会社に成長した。

 

 さらに、1877(明治10)年の西南戦争の軍事輸送も成功させると、事業はさらに拡大。鉱山、造船、金融、貿易、倉庫、水道など、多角的に進出していった。

 

 ところが、政府内における岩崎の最大の理解者であった参議の大隈重信が明治14年の政変で下野すると、政府の方針が三菱抑圧に転じて、事態が急転。政府が公然と肩入れする三井組を中心とした半官半民の新汽船会社と熾烈な争いを繰り広げることとなった。

 

 結局、両社の争いの結末を見ることなく、1885(明治18)年に岩崎は病没。享年50だった。

 

何事も大袈裟にやる癖があった

 

 渋沢の回想によれば、岩崎との初対面は1873(明治6)年のこと。

 

「明治六年に私が官途を廃めてから、弥太郎は私とも交際して置きたいとの事で、松浦といふ人が紹介し、態々当時私の居住して居つた兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事も無かつたが、それ以来交際するやうになつたのだ」(『実験論語処世談』)

 

 それまで、岩崎の名が聞こえてきたことはあったが、二人が正反対の信条であることを、渋沢はすでに知っていたようだ。

 

 渋沢の実業に対する信念は、「真正の利殖は、仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでない」(『論語と算盤』)というもの。渋沢が独占を嫌い、合本主義を貫くのは、結果として国や社会、庶民が豊かになることを第一義としているからだ。

 

 一方、岩崎は権限もリスクも1人に集中させるべきという独裁主義。「多人数寄り集つて仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、成績の挙がるもので無いといふのが弥太郎の意見」(『実験論語処世談』)だから、二人は真っ向から対立していた。

 

 そんな二人が決定的に決裂したのが1880(明治13)年。岩崎に招かれて、渋沢が酒宴に赴いた時のことだ。実は、渋沢は岩崎に何か企みがあると警戒して、そもそもこの招きに応じることに消極的であったようだ。しかし、何度も使者を寄こしてきたので、岩崎が指定した場所へ渋々赴いた。この時の様子を、渋沢は次のように振り返っている。

 

「『これからの実業はどうしたらよいだらうか』と云ふので私は『当然合本法でやらねばならぬ、今のやうではいけない』と云つた。それに対し岩崎は『合本法は成立せぬ。も少し専制主義で個人でやる必要がある』と唱へ、大体論として『合本法がよい』『いや合本法は悪い』と論じ合ひ、はては、結末がつかぬので、私は芸者を伴れて引上げた」(『雨夜譚会談話筆記』)

 

 途中で宴席を立ち去った渋沢に、岩崎は激怒したという。渋沢が語るには、「双方考へが異ふのだ。各々長ずる処でやらうといふ程度であつた。向ふは私を説得する積であつたらしいのであるが、説得出来なかつたから、ひどいと云つて怒つて居たとか云ふことであつた」(『雨夜譚会談話筆記』)とのことだが、「その結果は私と弥太郎とは明治十三年以来、全く離ればなれになつて終ひ、遂に仲直りもせず」(『実験論語処世談』)ということになった。

 

 経営理念は違えたものの、渋沢は人材登用の仕方については岩崎の手腕を認めてもいる。

 

「随つて(岩崎は)私の主張する合本組織の経営法には極力反対したものだが、それ丈け又、人才を部下に網羅する事には劫々骨を折り、学問のある人を多く用ひたものである。これが、弥太郎の人才を登庸するに当つての一特徴であつたかの如く思はれる」(『実験論語処世談』)

 

 また、金銀を使って派手な振る舞いをした戦国時代の天下人・豊臣秀吉と比較して、岩崎をこうも評している。

 

「傲奢の振舞ひをした人だと目せらるべき部類に属する人物で、何事でも総て大袈娑にやる癖あり、一寸客を招くにしても必要以上に多数の芸者を聘ぶといふ風であつたから、一見したところ如何にも傲奢に見えたのである。(中略)いくら岩崎でも(中略)自分の拵へた金銭を使つては、迚もあアいふ底抜けの馬鹿な贅沢を仕尽すわけに行くもので無い。自分で産を作つた人には何処にか根柢まで驕奢になり得ぬ固いところのあるものだ」(『実験論語処世談』)

 

 激しく対立した相手であったが、渋沢は「私は個人として別に弥太郎を憎く思つてたのでも何んでも無い」(『実験論語処世談』)とも語っている。

 

KEYWORDS:

過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

最新号案内

歴史人 2021年12月号

武田三代 栄華と滅亡の真相

戦国最強騎馬軍団を率いた甲斐源氏・名門武田家はなぜ滅亡したのか? 甲斐統一から甲州征伐まで、その全軌跡を追う。 甲斐統一を成し遂げた武田信虎、戦国の世にその名を轟かせた武田信玄、父の名声と戦い続けた武田勝頼。甲斐武田家に隆盛をもたらした三代に改めて迫る。信玄の天才ぶり、君主を支えた家臣団の実力、武田家にかかわった女性たち…など、武田家にまつわるすべてを徹底解説する。