渋沢栄一と三菱に手打ちを持ちかけたのは五代友厚ではなく政府だった
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
11月28日(日)放送の『青天を衝け』第37回「栄一、あがく」では、妻を失った渋沢栄一(吉沢亮)のその後が描かれた。三菱との戦いに意固地となり、亡き妻の面影を追いかけてばかりの栄一を救ったのは、かつての政敵や上司、新たに迎えた後妻らの言葉だった。
三菱との戦いに終止符が打たれる

大阪府大阪市にある大阪取引所。1878(明治11)年に五代友厚や鴻池善右衛門など大阪の豪商が発起人となって開業した。手前に建つのは五代の銅像。五代は「西の五代、東の渋沢」と並び称される、当時を代表する実業家だった。
妻の千代(橋本愛)を亡くしてから三ヶ月。慌ただしく仕事をするようになったものの、まだ栄一の悲しみは癒えていなかった。心配する周囲の勧めもあり、栄一は芸者見習いの伊藤兼子(大島優子)と再婚することとなった。
そんななか、栄一らの立ち上げた共同運輸と岩崎弥太郎(中村芝翫)の三菱との争いが激化。このままでは共倒れになる、と五代友厚(ディーン・フジオカ)が忠告に訪れるが、栄一は耳を貸そうとしない。栄一は、政府から三菱に制裁を加えてもらうよう伊藤博文(山崎育三郎)に嘆願したが、博文は応じるどころか、敵の悪口をあげつらう栄一をたしなめるのだった。
両社の争いがますます激しくなるなか、弥太郎が病死。この頃になると、2年半におよぶ争いで両社は満身創痍であった。そこで、友厚が調停に乗り出し、共同運輸と三菱は争いをやめ、合併することとなった。
一方、東京府会で廃止が決定した養育院は、栄一が自ら経営に乗り出すことになった。一度は離縁を願い出た後妻の兼子も協力し、経営資金を捻出するため政府高官や財界人から寄付を募るバザーを開くことを決意。栄一はようやく、千代を失った悲しみから立ち直ろうとしていた。
伊藤博文の忠言は一生涯かけて忘れられないものとなった
渋沢ら共同運輸と岩崎の三菱とは、泥沼のようなダンピング競争を巻き起こした。
当初、世論は共同運輸に賛同する声が多かったが、両社の競争が長引くと、競争そのものに対する非難に変わっていった。こうなると、政府も動かざるを得なかった。
というのも、このままでは共倒れになることが確実。そうなれば、ドラマの中で五代が口にしていたように、「必ず外国の汽船会社がやってきて、日本の海運を再び牛耳ることになる」のは目に見えていたからである。
ドラマでは両社の仲裁に五代があたったことになっているが、実際に介入したのは政府である。当時、農商務卿を務めていた西郷従道も「何れが倒れるも政府保護の趣旨目的に違う」(『青淵先生六十年史』)と憂慮したのは、それぞれ時期は違っていても、共同運輸も、三菱も、いずれも政府が支援して成長させた会社だったからだ。
一度は両社に協定を結ばせたものの、すぐさま破られ、両社はしぶとく争った。しびれを切らした政府は、半ば強引に「両社の資本を併せ、新に一大会社を起すより他に良き道はない、速に何分の答申を為せ、という訓令」(『渋沢栄一伝』)を下した。疲弊しきっていた両社に異論はなく、こうして1885(明治18)年、両社が合併に至り、日本郵船株式会社の設立となったのである。
岩崎が共同運輸の株の大半を買い占めていたのは事実で、結局、両社が合併に至ったことは、一見すると、この争いの敗者が渋沢のように見える。ところが、一概にそうとも言い切れないのは、岩崎も岩崎で、合本主義を否定していたにもかかわらず、株を買って共同運輸を乗っ取ろうとするなど合本主義のルールで対抗したからだ。作家の幸田露伴は、この争いを評した当時の声を自著の中で紹介している。
「実は戦は栄一が負であったが、岩崎も合本共力主義の内に溶解したのだから、主義においては岩崎が負であった」(『渋沢栄一伝』)
この一大闘争で、渋沢の合本主義が広く知らしめられた一方で、渋沢自身に反省するところもあった。
それは、ドラマにも描かれた、伊藤博文への嘆願の時のことである。渋沢は共同運輸の社員からの声を受け、三菱の横暴に対して政府から制裁をかけてもらおうと伊藤に掛け合った。ところが、伊藤は求めに応じるどころか、次のように渋沢に忠告したのである。
「自分のよいことをいうのはまず許せるとしても、それを証拠立てるために他人の悪事を数え上げるというのは士君子(立派な人間のこと)の与しないところではないか。実に卑怯なやり方だ。こういうことはお互いに慎みたいものである」(『青淵百話』)
この時のことを、渋沢はこう振り返っている。
「私はこの言葉を聞いたときには、ほとんど穴へでも入りたいくらいに思い、顔を上げることができなかった。もちろん自分は、そういう意味でいったわけではない。しかしこういわれてみると、『こちらのいい方が悪かった』とはじめて悟った。それ以来というものは、私は自分の言動に少なからず注意を払うようになった。後になって思いめぐらせば、伊藤公のこの時の忠言は、私が精神修養にあたってもっとも力のある一言であったと、今もなお深く感謝している」(『青淵百話』)
今回のドラマでは、岩倉具視(山内圭哉)、岩崎弥太郎、五代友厚が相次いで亡くなっている。それぞれの死亡日は、1883(明治16)年7月、1885(明治18)年2月、1885(明治18)年9月。史実においても、岩倉の死は他の2人に比べて少し前の話である。
当時の岩倉は、日本独自の憲法制定を悲願としていた。天皇大権を旨とする欽定憲法を構想しており、憲法調査のため1882(明治15)年に伊藤博文をヨーロッパに派遣している。ドラマで伊藤が「1年半もかけて憲法を調べてきた」と言っているのはこのことである。
1883(明治16)年5月、岩倉は京都御所保存のために京都に滞在していたが、もともと崩していた体調がこの時にさらに悪化。心配した明治天皇(犬飼直紀)は、東京医学校(現在の東京大学医学部)で講師を務めていたドイツ人医師であるエルヴィン・フォン・ベルツを派遣している。ベルツの診断の結果、岩倉はがんであることが判明。ベルツは岩倉に病名を知らせており、これが日本初のがん告知になったといわれている。
それからほどなくして、岩倉は死去。伊藤が憲法調査から帰国する直前のことであった。伊藤に託した憲法制定は、1889(明治22)年に公布された大日本帝国憲法として結実したが、それを見ることなく、岩倉はこの世を去った。岩倉の葬儀は国内初の国葬として執り行われている。