渋沢栄一らが買い集めた蚕卵紙の暴落は、政府の失策が原因だった?
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
10月31日(日)放送の『青天を衝け』第33回では、渋沢栄一(吉沢亮)がその基本理念に『論語』を据えることとなった。これまで後ろ盾となっていた一橋家や幕府、そして政府から離れたことをきっかけに、実業家としての姿勢を鮮明にしたといえる。また、栄一と対立を繰り返してきた大久保利通(石丸幹二)や三野村利左衛門(イッセー尾形)といった人物たちも、この回では別の一面をのぞかせた。
維新を支えた功労者たちが次々とこの世を去る

神奈川県横浜市にある横浜公園。栄一らが買い集めた蚕卵紙は、この辺りにあった空き地で焼き捨てられた。幕末には遊郭があったが二度の火災に遭い、後に公園として整備された。
小野組の破綻に伴い、第一国立銀行に連鎖倒産の危機が迫るなか、栄一は小野組の担保を政府ではなく第一国立銀行に差し出させることで難を逃れる。その結果、小野組は倒産。大蔵省の大隈重信(大倉孝二)は、合本銀行の理念に則り、三井組の特権を剥奪し、栄一を頭取に任命して、事業の立て直しを命じた。
仕事の落ち着いた栄一は静岡に赴き、かつての主君・徳川慶喜(草彅剛)に面会する。慶喜はすっかり趣味に生きる人となっていた。近況を報告するも、政府内についての栄一の意見に、慶喜は少しも関心を示さない。栄一は、慶喜の妻・美賀子(川栄李奈)から、没落した士族から恨みをぶつけられている慶喜の現状を聞かされる。「英明な将軍であらねばならなかった時より、今の方が幸せと思うていただきたい」という美賀子の胸の内を知った栄一は、ふと、「論語」を学び直し始めるのだった。
その頃、日本の貿易は輸入超過で金貨や銀貨が大量に流出していた。さらに、貴重な輸出品である蚕卵紙が外国商人らの買い控えに遭っており、政府首脳は頭を抱えていた。各国と締結している通商条約の手前、政府が表立って動くわけにはいかない。そこで、大久保利通(石丸幹二)は、民の代表として栄一に対策を依頼。かつて犬猿の仲だった二人だが、「国を助けると思うて、味方になってくれんか」という大久保の一言に動かされた栄一は、政府の金で買い上げた蚕卵紙(さんらんし)を焼き払って価値を高めるという奇策を講じて、事態を打開したのだった。
そんなある日、栄一は渋沢喜作(高良健吾)や五代友厚(ディーン・フジオカ)らを招いて、自宅で宴会を開いていた。その席で三野村は、「あまりにも金中心の世の中になってきた」と杞憂を口にする。
「こりゃ、あたしら、開けてはならぬ扉を開けちまったかもしれませんぜ」
三野村は1877(明治10)年に病死。同年に勃発した西南戦争で西郷隆盛(博多華丸)が自刃。翌年には大久保が暗殺によって命を落とす。維新の立役者を立て続けに失い、日本は再び混迷の時代を迎えようとしていた。
渋沢喜作は退官後に小野組で働いていた
今回のドラマのタイトルになっている「論語と算盤」は、渋沢の自著として有名なもの。1916(大正5)年に刊行されたもので、渋沢の人生観や経済論を『論語』の教えを交えて編んだものとして、現在も多くのビジネスマンに読み継がれている。
『論語』とは、中国春秋時代の思想家・孔子とその弟子との対話をまとめたもの。渋沢は幼き頃から親しんでいたが、自らの行動の指針として意識し始めたのは、大蔵省を退官した後のことだと述べている。それは、渋沢の書である『実験論語処世談』でも触れられている。
「論語といふ尊い尺度を標準にして決しさへすれば必ず過ちをする憂の無いものと信じ明治六年実業に従事するやうになつて以来は、斯る貴い尺度があるのに之を棄てて何に拠らうかと迷ふ必要は無いと思ひつき、眷々論語を服膺して之が実践躬行に努めることにしたのである」
「論語と算盤」の意味するところは、論語を道徳、算盤をビジネスになぞらえ、両者は両立する、というようなもの。渋沢の著『論語と算盤』にも、次のような一節がある。
「論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いもの」
道徳とビジネスは一見かけ離れているように見えても、実は近いところがある。幼い頃から論語に親しんでいたことと、藍葉の買い付けなどの家業に勤しんでいたことが、渋沢にこうした実業感覚のようなものを植え付けていったと考えられる。
さて、ドラマの中にあった蚕卵紙の焼却は、1874(明治7)年10月に起こった事件である。蚕卵紙とは、蚕に卵を産み付けさせた紙のこと。
19世紀前半まで、生糸の生産はイタリアやフランスなどヨーロッパで盛んだった。ところが、19世紀半ば頃から蚕の感染病が蔓延し、生産力が著しく低下。国内経済を逼迫させるまでになってしまったことから、各国は清国(中国)からの輸入にシフトした。ところが、アロー号戦争などにより清国の貿易が中止されてしまう。そこで白羽の矢を立てられたのが、感染病もなく、上質な生糸を生産していた日本だったのである。こうした背景があり、日本の蚕卵紙は飛ぶように売れていた。
ドラマでは外国商人が買い控えをしたことで値が下がったことになっていたが、そもそもこの時期に蚕卵紙の価格が暴落したのは、生産過剰になったことが理由であった。当時の重要な輸出品として高く売れたことから、全国から生産者が売り込みに殺到したのである。この時、横浜の売り込み商のもとには6000人以上もの農商人が駆けつけていたという。
それまで蚕卵紙は政府のもとで生産調整をすることで価格が統制されていた。ところが、この年に政府が規制を撤廃したことで過剰に生産されたようだ。
もっとも、渋沢が焼き捨てさせたのは、上物、下物とランク付けされているうちの下物の方だ。10月9日から23日にかけて、大勢の見物客たちの見守るなか、48万枚余りの蚕卵紙が焼却された。外国商人らは1枚5銭でも買わなかったが、焼き捨て事件の後は1枚50〜60銭で取引され、下物も30銭まで価格が戻った。その年は131万枚が輸出されたという。
しかし、価格は安定したものの、事業を立て直すことができずに倒産した種屋も後を絶たなかった。蚕卵紙の暴落は1877(明治10)年、1878(明治11)年にも起こっているが、この時も多くの種屋が倒産している。
なお、蚕卵紙焼き捨ての際に「10年越しの……俺たちの横浜焼き討ちだい!」と気炎を上げていた喜作だが、実はヨーロッパから帰国して大蔵省を退官して以降は、ドラマの冒頭で倒産した小野組で働いていた。しかし、わずか1年も経たないうちに小野組が破綻したため、直後に横浜に移り、生糸貿易業を営んでいたという。