国内初となる銀行は三井組のはずだった!
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
10月17日(日)放送の第31回は、渋沢栄一(吉沢亮)に訪れる最後の転機の様子が描かれた。権力側で立ち居振る舞っているうちに、知らぬ間に居丈高になっていた自分を見つめ直し、官僚としてではなく、一人の民として国内産業に従事することを決意したのである。
自らの過ちを認め、最後の転身を図る

群馬県富岡市にある富岡製糸場の繰糸工場内部。1872(明治5)年に完成。フランス式の労働環境を導入し、勤務時間や休日が設定された模範的な工場だった。後に民営化されてから環境が悪化したという。
箱館戦争で捕縛された渋沢成一郎(=喜作、高良健吾)が二年半ぶりに釈放された。互いの歩んだ数奇な運命を乗り越え、再び生きて会えたことに感慨を覚える二人。成一郎は再び喜作を名乗り、栄一の推薦で大蔵省に仕えることとなった。
一方、大久保利通(石丸幹二)ら主要閣僚がこぞって海外に渡航した政府は、西郷隆盛(博多華丸)らが留守を預かることになっていた。留守政府は大久保との間に約定があり、新たな改正を手掛けることは一切禁じられた。しかし、この間にも栄一は、国立銀行や富岡製糸場の創立など、近代日本の基礎づくりに精力的に着手していったのである。
しかし、民を富ませたいと思っていた栄一が、いつの間にか権力を笠に着た物言いをしている自分に気がつく。その胸に去来したのは、「過ちて改めざる、これを過ちという」という論語の教えだった。
栄一は、権力側ではなく、民の一人として日本に尽くす決意を固めたのだった。
西郷は日和見せず、改革を推し進めていた
「日本資本主義の父」と称される渋沢の功績は多々あるが、なかでも必ず名前が挙がる事業のひとつが、第一国立銀行の設立である。第一国立銀行は、1872(明治5)年に制定された国立銀行条例に基づく、国内初となる銀行で、条例制定の翌年に設立された。現在のみずほ銀行の前身となる銀行である。
銀行設立のそもそものきっかけは、1871(明治4)年にアメリカに渡っていた伊藤博文(山崎育三郎)が調査した国立銀行条例をもとに、渋沢が研究・精査し、政府に上申したことである。
しかし、実はそれよりも前に、三野村利左衛門(みのむらりざえもん/イッセー尾形)の三井組が私立銀行設立の計画を立てており、政府に請願していた。ドラマの中で「井上様にも再三申し上げておりますが、三井の望みは合同ではなく、三井のみのバンク、銀行でございます」という三野村のセリフがあるが、実は、そもそも三井組が独自で銀行を設立しようとしていたのである。
三井組からの請願があったのが、ちょうど大蔵省が国立銀行条例の調査を始めた時期と重なり、話を持ち込まれた井上馨(福士誠治)は、三野村に銀行の設立は少し待つように、と通達。その後、日本版の国立銀行条例が出来上がったため、条例に沿った形での銀行をスタートさせることとなった。
渋沢の構想は、民の力を合わせた、いわゆる合本主義による銀行設立であった。そこで、三井組一社のみでなく、三井と同じく幕府為替御用を務めていた小野組と島田組も協同させることとなり、その他、一般の株主を募集して創立にこぎつけたのだった(『雨夜譚』)。
ちなみに、第一国立銀行は国内初の銀行として知られるが、これはあくまで国内資本による、国内の条例に基づくものであり、当時、横浜には外国資本による香港上海銀行という金融機関が存在していた。
さて、政府の主要閣僚が岩倉使節団として海外に出張中、留守政府は重大な改革をしてはならない、と約束させられていたのはドラマにあった通り。しかし、西郷らは積極的に改革を断行している。まず行ったのが、朝敵とされた人物たちの赦免だった。喜作が放免となったのも、その一環である。
喜作が投獄されていたのは、東京丸の内にあった軍務局糾問(きゅうもん)所の牢獄。広さは六畳だったというが、厠(かわや)と流しが同室にあるため、実質は四畳半の牢であった。ドラマで描かれていたよりもずっと狭く、衛生面も決して良いとはいえなかった。喜作は二年半もの間、そんな劣悪な環境下で過ごしていたのである。
渋沢は、投獄されていた喜作に手紙や衣類、食物、金銭などを差し入れていたが、大蔵省の仕事で忙殺されていたため、ついに面会に訪れることはできなかった。しかし、釈放された際には身元引受人として喜作を出迎えている。
留守政府によって赦免されたのはもちろん喜作だけではない。箱館戦争の責任者である榎本武揚も釈放されているし、指揮官であった大鳥圭介にいたっては政府に仕官させている。また、官位を剥奪されていた徳川慶喜(草彅剛)には従四位(じゅしい)の位を与え、幕府最後の大物といえる旧幕臣の勝海舟も登用。ドラマでの西郷は、会議の席でも我関せずといった様子を見せていたが、実際は大久保らが不在であるのをいいことに、西郷流の国づくりを思うように進めていたのである。
また、今回、渋沢は妾(めかけ)である大内くに(仁村紗和)を自邸に住まわせることにしている。大内くには渋沢の子を身ごもってもいる。今日の常識では考えられないことだが、当時の政府高官が妾を囲うことはほとんど当たり前の時代であった。同居を選んだのは、渋沢にとって大内くには妾というより側室、といった意味合いが強かったのかもしれない。清廉潔白の印象の強い渋沢だが、実は女性関係に関してはいろいろと逸話を残しており、大内くにはそのうちの一人である。
渋沢と大内くには二人の女子を授かっている。一人目の「ふみ」は第一国立銀行や富岡製糸場が設立される前の1871(明治4)年に、二人目の「てる」は渋沢が大蔵省を退官することになる1873(明治6)年に生まれている。
大内くにの存在は、渋沢と千代(橋本愛)との間に生まれた「うた」も後に日記に書き残している。日記によれば、うたにとって大内くには幼い頃からの同居人、といったような内容で、特に毛嫌いしたとか、居心地が悪かった、というようなわだかまりの気持ちはなかったようだ。1873(明治6)年に千代や渋沢てい(藤野涼子)、大内くにらが一同に会して撮影した写真も残されている。もっとも、千代の胸中をうかがい知る史料は残されていない。
なお、ドラマのテーマ音楽指揮を担当する尾高忠明氏は、渋沢と大内くにの長女「ふみ」の孫にあたる。つまり、渋沢のひ孫が今回のドラマの制作陣の一員として加わっていることになる。