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【青天を衝け】渋沢栄一は大久保利通との衝突後に新政府に辞意を表明していた


10月10日(日)放送の第30回では、渋沢栄一(吉沢亮)を取り巻く新政府の内情がますます混乱していく様子が描かれた。政府による新しい国づくりの仕事に対して、栄一は行き詰まりを覚え始めていた。


 

自ら設立した改正掛の解散を命じられる

大阪府大阪市にある泉布観(せんぷかん)。1871(明治4)年、創業当初の造幣局の応接所として建設された。「泉布」は貨幣、「観」は館の意味で、明治天皇による命名。国指定重要文化財。

 求心力を失いつつあった政府は、薩摩に退いていた西郷隆盛(博多華丸)に再出仕を請う。栄一は、混乱する政府を西郷がまとめあげることを期待したが、事態が好転する契機はなかなか訪れなかった。

 

 そんなある日、大阪の造幣局に出張していた栄一は、思いがけず五代友厚(ごだいともあつ/ディーン・フジオカ)と再会する。幕末にことごとく幕府を追い詰めた実力者を前に複雑な表情を浮かべるが、五代の目指す新しい世のあり方を聞き、栄一は少なからず共感するのだった。

 

 そんななか持ち上がったのが、政府の悲願の一つである廃藩置県だった。

 

 廃藩に伴う諸業務は、藩ごとの負債金額、藩札の発行高、租税徴収の方法など、多岐にわたる上に短期で把握・立案しなければならない難事業で、あまりの大変革であった。この大事業を、栄一ら改正掛(かいせいがかり)は支え、見事にやり遂げた。その功績により、栄一は、大蔵大丞(おおくらだいじょう)に昇進する。

 

 しかし、その後に大蔵卿に就任した大久保利通(石丸幹二)と栄一が対立。改正掛を意のままに動かせぬと悟った大久保は、その場で改正掛の解散を命じた。

 

 さまざまな改革を手掛けてきた改正掛の解散に意気消沈する間もなく、父の市郎右衛門(小林薫)危篤の報を受けた栄一は、すぐさま故郷の血洗島(ちあらいじま)へと帰郷。

 

「お前を誇りに思っている。栄一、ありがとう」との言葉を残し、市郎右衛門は家族に見守られながら、息を引き取ったのだった。

 

「大久保卿に財政計画を滅茶苦茶に」と激怒

 

 大久保が改正掛を目の敵にしていたのは、ひとえに旧幕臣が中心となった組織だったからだ。海外渡航をした者も多く、世界の制度や設備を目にしてきた旧幕臣は、日本の改革にとってなくてはならない人材だった。ところが、大久保はむしろ、こうした旧幕臣らの排除こそが改革の最重要事項と考えていたようである。

 

「徳川幕府を倒してまで、君たちが作りたかった新しい世は、一体、何なんだ?」

 

 いみじくも、ドラマの冒頭で徳川家康(北大路欣也)が投げかけていたように、政治を行なうのが旧幕府から新政府に移行しただけで世の中にはほとんど変化がなく、何の恩恵も受けられない国民からの不満も高まりつつあった。そんな政府にとって最大の改革案といえるものが廃藩置県だったのである。

 

 これは、読んで字の如く、藩を廃して代わりに県を置くこと。当時存在していた261藩を廃止し、3つの府と302の県を置いた(その年のうちに3府72県に統合)。各県には、藩主ではなく政府任命の知県事を着任させることで、それまでの藩主と旧領地との関係性を断ち切ったのである。当時、まだ残っていた封建制度を考えれば、国の形を大転換するといっても過言ではない大事業だった。

 

 廃藩置県に伴い、諸藩がそれぞれで発行していた藩札を回収し、新しい紙幣を流通させる必要がある。その準備のため、大阪の造幣局に渋沢が出張した、というのが、今回の冒頭のシーンだ。ちなみに、大阪の造幣局とは、当時の渋沢の上司である大蔵大輔に就任した井上馨(福士誠治)が、それまで在籍していた場所である。

 

 渋沢はこの時に地元の商人たちと触れ合うにつれ、自分が日本の商工業を牽引していかなければならない、という気持ちを強めたらしい。商人たちはいまだに自分たちの身分は下であると卑下して、商売のために新たな工夫をしようという向上心に欠けていた。そのため、自分が官僚を辞して民間で商業振興の任に当たりたい、と大隈重信(大倉孝二)と伊藤博文(山崎育三郎)に訴えている。

 

 大隈と伊藤は、渋沢の気持ちには賛同しつつ、今は思いとどまれ、と慰留した。

 

 ちょうどその頃、渋沢は官僚の仕事に不満を抱いていたようだ。陸海軍をはじめ、文部省や司法省が要求する予算を大蔵省が用立てる、といったことが続き、まるで財政のことなど考慮に入れない物言いが連日、渋沢や井上たちを悩ませていたからだ。

 

 財政への理解がない筆頭といえる存在が、大久保であった。

 

 ドラマにもあったように、陸海軍の歳費額をそれぞれ800万円、250万円と突きつけてきたのが大久保だ。渋沢は、歳入の定まらぬうちに歳出を決めつけることがいかに危険であるかを懇々と説いたが、受け入れられることはなかった。

 

 ドラマでは、渋沢の反論を受けた大久保が、改正掛の解散を吐き捨てるように宣言してその場を立ち去っているが、渋沢の言によれば、席を立ったのは渋沢である(『雨夜譚』)。渋沢の怒りは相当なもので、「私が折角工夫中の財政計画を滅茶滅茶にされてしまふ事になつたから、私もグツと癪(しゃく)に障り、大久保卿の此の意見には反対せざるを得なかつたのである」(『実験論語処世談』)と振り返っている。

 

 この問答をきっかけに、「官途を辞するの念を再発した」渋沢は、大久保とのやり取りがあってすぐ、井上の邸宅を訪ねて辞意を表明している(『雨夜譚』)。これほど会計に無理解が続くようでは、遠からず大蔵省、ひいては政府は破綻するだろう、と言って、渋沢は井上に辞職を申し出たのである。この時も井上に慰留され、渋沢は再度、大阪へと出張を命じられた。

 

 この時の渋沢の大阪滞在は一か月あまり。再び東京に戻ってきたその日に、父・市郎右衛門の病の一報を受け取っている。1871(明治4)年1115日のことである。

 

 ドラマでは渋沢の帰郷後、2日で亡くなったことになっているが、実際の日程は少し異なる。一報を受けて翌16日夜には家に到着し、昼夜を問わず看護した。市郎右衛門は18日の昼頃から昏睡状態となり、22日に永眠したという(『雨夜譚』)。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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