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渋沢栄一は幕末当時「大隈重信」をどのように見ていたのか?

渋沢栄一が交流した幕末の偉人たち⑥


日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残してきた。そんな渋沢が見た、政治家・大隈重信とは、どのような人物だったのだろうか。


 

日本初の政党内閣を実現させた政治家

東京都中央区築地にある大隈重信の邸宅跡。この場で渋沢や伊藤博文らが、連日のように政治談義にふけっていたことから「築地梁山泊」と呼ばれた。現在は高級料亭「新喜楽」となっている。

 大隈重信は、1838(天保9)年に佐賀藩の大隈信保の長男として生まれた。大隈家は砲術や築城家として佐賀藩に長年仕える、上士と呼ばれる身分の武士であった。

 

 幼い頃に藩校である弘道館に入学し優秀な成績を修めていたが、16歳の時に閉鎖的な藩校の教育方針に反発。1854(安政元)年に義祭同盟に加入して、尊王思想を学ぶようになる。

 

 1867(慶応3)年に副島種臣とともに佐賀藩を脱藩。京都へ上り、十五代将軍・徳川慶喜に政権を返上させるための活動を始めた。ところがあえなく捕縛され、佐賀に送還。一か月の謹慎処分となった。

 

 翌年に明治新政府に出仕。外国事務局判事となり、キリスト教徒の処遇をめぐってイギリス公使パークスと一歩も引かない論争を繰り広げ、高い評価を得た。

 

 木戸孝允に重用されるようになると、大蔵大輔に就任。鉄道や電信の建設、財政改革などに尽力する。1870(明治3)年に参議、1873(明治6)年には大蔵卿となり、大久保利通の下で地租改正に多大な貢献を果たした。

 

 木戸や大久保が亡き後も政治家として活躍。明治十四年の政変で下野した後、立憲改進党を結党し、第一次伊藤博文内閣では外務大臣を務めた。1898(明治31)年には総理大臣に就任。この内閣は、板垣退助の自由党と合同して誕生したことから「隈板内閣」と呼ばれ、日本初の政党内閣として知られている。

 

 政治家を務める傍ら、現在の早稲田大学の前身となる東京専門学校を創設するなど、教育にも力を注いだ。

 

他人の言より自分の言を聞かせるのを主とせらるる御仁

 

 渋沢と大隈との初対面は1869(明治2)年12月初旬のこと。

 

 当時、静岡藩に仕えていた渋沢は、政府への仕官を要請されて上京した。渋沢は、官僚として働くためではなく、直接断るつもりで東京に向かったわけだが、この時に面会した相手が大隈である。

 

 渋沢は、租税司正という役職を拝命したが、職務に経験がないから辞退したい、と告げる。これに対して大隈は、維新は八百万(やおよろず)の神々が集ったように新たな政治を行うのだ、誰もやり方など知らない、君も神の一柱となり新日本の建設に従事せよ、といったようなことを熱弁して、渋沢を説得した。

 

 渋沢は、大隈を次のように評している。

 

「大隈侯の如きは他人の言を聞くよりも他人に自分の言を聞かせるのを主とせらるる御仁である」(『実験論語処世談』)

 

 大隈は後に全国各地で講演会や演説会に招かれ、「民衆政治家」と呼ばれるほど大衆に人気の政治家となった。渋沢の見立て通り、雄弁家だったことが有利に働き、人々を魅了したのだ。豪放磊落で楽天家。それが庶民による大隈の人物評だった。

 

 ただし、五代友厚からは「愚説愚論だと思っても、人の話は最後まできっちりと聞いてあげること」などと釘を刺されている。豪快な雄弁家であるがゆえに、大言壮語と周囲に誤解されることも少なくなく、時には「早稲田の大風呂敷」などと揶揄されることもあった。渋沢によれば、大蔵省でともに働いていた若い頃は、

 

「随分能く他人の意見に耳を傾けられ、之を善しと見れば採用するに躊躇せられなかつたものである」(『実験論語処世談』)

 

 という一面もあったことを振り返っている。

 

 一方で、渋沢はこう続けている。

 

「ただ大隈侯に就て感心するところは、あの通り他人に聞かせるばかりで容易に他人の談話を聞かうとせられぬ割に、他人がチヨイ〳〵と話したことを存外よく記憶して居らるることである」(『実験論語処世談』)

 

 大隈の記憶力のよさは、渋沢のみならず、元新聞記者で後に政治家となった関直彦や、教育者で政治家の尾崎行雄ら複数人が証言している。大隈は字を書くことがなかったため、多数著している著作はすべて口述によるものだというが、これも高い記憶力のなせる技、といえよう。

 

 渋沢と大隈とは、50年にわたって親しく交際を続けた。無論、その間に互いが互いに対して不平不満を抱いたこともあったが、絶縁に至るようなことは一度もなかった。渋沢はこう述懐する。

 

「一時誤解があつたりなどしても、そのうちに事情が判明すれば誤解が消えてしまひ、五十年間、今日に至るまで依然として昔日の交情を維持してゆけるのは、私が久しい間御交際を得て居るのに狎れて、大隈侯に対し敬意を欠く如きことをせず、久しく交つて猶ほ侯を敬して居るからである。又侯とても私に対して敬意を欠くやうな事をなされず、私を敬して下さるのである。これが私が大隈侯と明治二年以来今日に至るまで、親しく御交際申して居られる所以である」(『実験論語処世談』)

 

 たとえ短期間だったとしても、渋沢が政府官僚として仕事ができたのは、大隈の存在によるところが大きい。そして、大蔵省で働いた実績は、その後の渋沢を形作る上で重要な経歴であったことも、間違いないといえる。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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