渋沢栄一は商業活性化のために採算度外視で銀行の支店を広げていた
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
11月7日(日)放送の「青天を衝け」第34回では、明治を代表する二人の実業家・渋沢栄一(吉沢亮)と、三菱の岩崎弥太郎(中村芝翫)との対決が描かれた。一方、栄一の妻・千代(橋本愛)が養育院を訪れ、身寄りのない子どもたちに愛情を注ぐ場面は、激論の様子とは対照的に優しさに満ちたシーンとなった。
三菱・岩崎弥太郎と激しく論争する

東京都板橋区の東京都健康長寿医療センターにある渋沢栄一の銅像。養育院は1872(明治5)年に本郷加賀藩邸跡で事業が開始。幾度かの移転を経て、関東大震災後にこの地に設置された。
大久保亡き後、大隈重信(大倉孝二)は政府の最高実力者の一人となった。
大隈は、西南戦争で負った莫大な戦費を賄うため、政府紙幣を大量に発行。栄一は紙幣を大量に刷っても信用が落ちれば価値が下がり、物価が上がって庶民が苦しむ、と抗議するが、大隈は聞く耳を持たない。
大隈の行った積極財政により、景気は一時的に回復。この機に乗じて銀行を立ち上げたいという者が全国に続出した。第一国立銀行の頭取である栄一の元には、そうした山っ気のある商売人たちが相次いで訪ねてくるようになる。しかし、金儲けではなく、国益のために銀行を作った栄一にとって、必ずしも歓迎できる状況ではなかった。
その頃、政府は、欧米5か国と徳川幕府との間に結ばれていた不平等な条約への対策に迫られていた。日本にとって不利な条約だったため、一刻も早く改正しなければならないが、そのためには、日本も欧米並の文明国になる必要がある。文明国に必要なのは、世論だった。民の声を背景にした政治でなければ、一等国の交渉とはいえない。ハリー・パークス(イアン・ムーア)との話し合いの中で世論の必要性を痛感した伊藤博文(山崎育三郎)は、栄一らを呼び出し、商人の会議所を作ってほしいと依頼する。会議所の声を民の代表、すなわち世論とするためだ。渋沢喜作(高良健吾)や福地源一郎(犬飼貴丈)らは会議所に懐疑的だったが、栄一は会議所こそ、これからの日本に必要なもの、と賛同する。
そんな栄一のもとに、岩崎弥太郎から宴席の誘いが来る。きらびやかな芸者に囲まれながら、二人は経済について熱く語り合った。お互い百姓出身で、武士の世の理不尽に怒っている点で共通していたが、多くの民を豊かにする合本主義を貫く栄一とは反対に、弥太郎は経済の才覚のある者がこの国を動かすべきと独占主義を主張。二人の信念はあまりにかけ離れていた。お互いに手を組み、実業界を牛耳ろう、との弥太郎の誘いを、栄一は断った。
そんななか、世界有数の名士である、アメリカのグラント将軍が来日することになった。条約改正の糸口にしたい政府は、官民あげてのもてなしを内々に計画。栄一も、日本を一等国として世界に認めさせるため、民の一人として、歓待の準備に取りかかるのだった。
世紀の大論争は芸者遊びをはしごした後に起こった
西南戦争の戦費を賄うため、政府紙幣すなわち明治通宝を増発したことは、紙幣価値の暴落を招いた。
紙幣価値の下落は、同時に物価の上昇を引き起こす。1877(明治10)年の米価は5円55銭だったが、翌年は6円48銭、その翌年は8円1銭と年々高騰し、1881(明治14)年には11円20銭と、わずか4年で2倍となった。これが日本における初のインフレーションである。
この好景気に大きく利益をあげたのが銀行業だった。この頃、横浜に第二国立銀行、新潟に第四国立銀行、大阪に第五国立銀行が、第一国立銀行の運営を参考に設立されている。ちなみに、第三国立銀行は途中で頓挫して実現しなかった。
こうして銀行が徐々に全国に広がり、業務内容が広く知られるようになると、銀行の立ち上げを希望する者が続出した。1880(明治13)年頃には、設立された国立銀行が150行を数えるほどになったという。
この頃の渋沢は、東北地方を中心に第一国立銀行の支店を広げている。渋沢の狙いは、文明開化の遅れている地方に銀行の機能を広く知らしめ、商業の活性化に寄与したい、というところにあった。
また、朝鮮国との通商発展を手助けするため、釜山にも支店を出している。銀行の利益だけを考えると、いずれも不利になる出店であり、銀行の職員から反対の声もあがったが、渋沢は自らの理念遂行のために、やや強引に推し進めたようだ(『青淵回顧録(抄)』)。
今回のドラマでは、ついに渋沢と岩崎が顔を合わせている。二人の主義主張は、ドラマの通りに正反対で、宴会の席で大論争になったという。
その舞台となったのは、向島の料亭・柏屋。岩崎は、渋沢一人の接待のために、芸者の中でも選りすぐりのきれいどころを14〜15人用意したという。この時、岩崎はまず渋沢を隅田川の屋形船に誘い、当初は和やかに宴が進んだようだ。ひとしきり船遊びを楽しんだ後、下船して料亭に戻り、再び酒宴が行われ、ひと段落した時に論争が起こった。
ドラマにあるように、二人の経歴に共通するところはあったものの、経済論では一向に交わることがなかった。何しろ、国を潤し、民も富ますという合本主義を唱える渋沢に対し、岩崎は「他力合本を要せず」という独裁経営を旨とする人物。三菱は社員を「使用人」と規定していたといわれるぐらいだから、渋沢の理念とはまるで相容れなかったのである。
お互いに引くことはなかったので、渋沢はやむなく席を立った。どうやら、芸者を連れ出して帰ったのは本当のようだ。もっとも、渋沢が連れ出したのは好みの芸者ではなく、偶然にも宴席に居合わせていた馴染みの芸者だったらしい。
なお、岩崎に酒宴の誘いを受けた時、渋沢は新橋で芸者遊びをしていた最中だったという。芸者遊びを中断して岩崎からの使者とともに向島の宴席に赴いたわけだが、この頃の政府高官や豪商たちは、つくづく羽を伸ばす遊びがお好きだったようだ。