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新政府は徳川慶喜に旧幕府軍の征伐を命じていた!

史実から振り返る今週の『青天を衝け』


9月19日(日)放送の第27回では、渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)がパリで学んできたことを生かし、ついに実業家の第一歩となる商いを始めることとなる。その舞台となったのは、主君・徳川慶喜(草彅剛)が謹慎生活を続ける駿府藩(すんぷはん)だった。


 

駿府で新しい道を歩み出す


北海道函館市にある五稜郭。旧幕府軍最後の砦となった場所で、榎本武揚らは徳川家臣団の救済のためにここで「蝦夷(えぞ)共和国」を建設し、北方警備に当たりたいと朝廷に嘆願していた。

 

 徳川慶喜(草彅剛)との謁見を済ませた篤太夫はその翌日、駿府藩庁に呼び出され、勘定組頭に任命される。しかし、篤太夫は農業か商いをして余生を過ごしたい、と言って任官を固持した。

 

 ところが、駿府藩の平岡準(大竹直)は篤太夫を勘定組頭に据えよう、と諦めずに勧誘してくる。そのなかで、駿府藩の財政が危機的状況にあることを知った篤太夫は、やむなく勘定方の仕事を手伝うことにした。

 

 ともあれ、慶喜の暮らす駿府に骨を埋める覚悟だった篤太夫は、妻の千代(橋本愛)と娘のうた(山﨑千聖)を呼び寄せ、新たな生活の始まりに心を躍らせるのだった。

 

 ちょうどその頃、旧幕府軍と新政府軍との最後の戦いである箱館戦争が最終局面を迎えていた。参戦していた新撰組の土方歳三(町田啓太)は、戦で死ぬことを決意。戦友の渋沢成一郎(=喜作、高良健吾)に対して生き延びることを約束させ、土方は再び戦場へと舞い戻っていった。

 

 戦死か、敗走か。成一郎の胸中には、これまで戦ってきた戦友やかつての同胞、主君、そして篤太夫の顔が浮かんでは消えていった。砲撃の中、成一郎は戦場をさまよい歩く。そうして、箱館戦争は旧幕府軍の敗北に終わった。

 

 一方、篤太夫は「商法会所」を立ち上げることに奔走。反目し合う武士と商人らをまとめあげ、駿府藩は財政危機を脱し、少しずつ利益を上げ始めた。

 

 駿府藩の手掛ける事業の成功は、中央政府にも届いていた。五代才助(=友厚、ディーン・フジオカ)や大隈重信(大倉孝二)らは、事業の立役者が渋沢篤太夫であるという事実を知り、その名前を胸に刻み込んでいた。

 

財政建て直しのために商法会所を立ち上げる

 

 ドラマの冒頭で勘定組頭の辞令を受けた渋沢だが、実際は、辞令書を平岡の前に投げ捨てて「御免を蒙(こうむ)ります」と言って宿に帰ってしまっている。

 

 その後、渋沢の投宿していた宿に大坪という者が遣わされて、再度、説得をしたものの、渋沢は、慶喜からの返書を必ず水戸へ持ち帰ると昭武に約束しているのに、その後ならまだしも、返書も受け取っておらぬのに勤務に就けとは、「じつに御情合を御存知ないなされ方」(『雨夜譚』)であると非難して、突き返した。辞令書をその場で投げ捨てたのは、受け取ると後ほど辞表を書いて断らなければならなくなり、そうすることは腹立たしいからだ、というほど、怒り心頭に発していたようだ。

 

 さらにその夜、大坪が「これは仔細のある事だから」と再度説得し、翌日、ようやく大久保一翁(おおくぼいちおう/木場勝己)と面会し、説明を受けて、慶喜の深い考えを知ることになるのである。

 

 実は、水戸藩、つまり昭武から、渋沢を藩士として召し抱えたい、という申請が駿府藩に来ていたようだ。渋沢が水戸藩士に取り立てられれば、昭武に重用されることは間違いない。そうすれば、まだ混乱の中にある水戸藩において、渋沢の命が狙われる可能性は極めて高い。ドラマで描かれたのと同様、慶喜の懸念はそこにあったようだ。

 

 さて、渋沢はこの回からいよいよ近代的な商いに乗り出すことになった。渋沢が駿府藩の財政を建て直すために提案したアイデアは、共力合本法というもの。これは今日でいう株式会社のことだ。つまり、藩で持っている資本と地元商人たちの資本を合わせて殖産興業に努め、そこで生まれた利益を、政府からの借金である石高拝借金の返済に充てることにしたのである。業務内容は、銀行と商社を兼ね備えたようなものだった。

 

 半官半民の商法会所の出資者は、駿府藩や地元の商人など。総資本は29万4717両あまりで、そのうち駿府藩の出資額は約1万6628万両だった。このうち5542両は、渋沢がパリ留学中に倹約し、蓄財したものが充てられたという。

 

 当時、幕府に派遣されて洋行した武士たちの感覚では、費用が足りなければ足りないだけ請求し、剰余金が出ればその分遣ってしまうのが常だった。

 

 武士というのは、それほど金銭には無頓着な存在だったのである。明細の提出どころか返金する武士がほとんどいなかったなか、一銭も懐に入れず、なおかつ多額の返済をした渋沢の行為は、だからこそ高く評価された。こうした渋沢の高潔な行ないが、藩による商法会所への出資につながったのである。

 

 ちなみに、ドラマの中で萩原四郎兵衛(田中要次)が「合本がええあんばいに転がりゃ、きっと日本中がまねすることにならぁ」と言っているのは、渋沢の自著『雨夜譚』にある「今日静岡藩からその端緒を開いたら、自然と各地へ伝播して日本の商業においても少しは面目を回復する一端と相なりましょう」という渋沢の言葉がベースになっていると考えられる。

 

 帰国からわずか数か月で商法会所の立ち上げにこぎつけた渋沢の姿が今回のドラマのメインだが、一方で、この時期の大事件といえば、箱館戦争の終結だ。これで、名実ともに幕府が滅ぶことになったのである。

 

 1869(明治2)年5月、旧幕府海軍の榎本武揚(えのもとたけあき)らが新政府軍に投降したことで、箱館戦争は終わった。すなわち、戊辰戦争が終戦を迎えたのである。

 

 実はこの直前、新政府には、箱館征伐の総大将に慶喜を据える計画があった。新政府の首脳は、旧幕臣の勝海舟に慶喜を説得するよう要請していたのである。勝は、慶喜の名誉回復のまたとない好機と考え、これを引き受けるつもりだった。ところが、新政府は慶喜を敵陣に送り込む危険性に気づき、すぐさま要請を撤回。代わりに弟の昭武への要請に切り替えたが、こちらも立ち消えとなった。当時の新政府は発足したばかりで、まだまだ混乱のさなかにあったのである。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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