一度も大奥に入らなかった最後の正室・一条美賀子と徳川慶喜
今月の歴史人 Part.2
徳川将軍を支えた正室はどのように将軍に関わっていたのか? 徳川幕府の施政や、後継者問題に大きな影響を与えた将軍とその奥方の関係について紐解く。今回は「一度も大奥に入らなかった」という異例の正室だった一条美賀子と、徳川慶喜について紹介する。(『歴史人』10月号「徳川将軍15代×大奥関係図」より)
■維新後まで女性に囲まれ続けた最後の将軍とその正室の生涯

慶喜が大政奉還を宣言した二の丸御殿の玄関「車寄」慶応 年(1867) 月 日に二条城・二の丸御 殿の大広間で、徳川慶喜は諸藩の重臣を前にして 大政奉還を宣言した。写真は二の丸御殿の玄関で ある「車寄」。
水戸藩に生まれ、一橋家を相続した慶喜は、嘉永元年(1848)に上臈御年寄・姉小路の世話により、一条忠香(いちじょうただか)の娘・輝子(てるこ)と婚約した。父・徳川斉昭(なりあき)と姉小路との親交からの縁談だった。だが婚儀直前に疱瘡(ほうそう)に罹患したため代役として輝子の義姉にあたる一条美賀子(みかこ)と結婚した。
一橋家に入った慶喜は11歳で、屋敷には義理の祖母にあたる18歳の未亡人、一橋直子(徳信院[とくしんいん])がいた。直子は慶喜を可愛がり二人は姉弟のように仲が良かった。嫁入りした美賀子は、その様子に疑心暗鬼となり自殺未遂を起こす(『昨夢紀事』中根雪江)。安政5年(1858)、慶喜が将軍継嗣の候補となると「折角年頃 馴染みたるものを、又又外へ移られ んことは如何にも心細し」(『昔夢会 筆記』徳川慶喜)と直子は話した。
そんな噂を振り払うかのように、慶喜と美賀子との間には同安政5年7月に一女が誕生。だが生後数日で夭折した。その後、慶喜は将軍後見職となり、文久3年(1863)より上洛し将軍後見職・禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)、そして征夷大将軍就任と、5年ほど京都で政務を執った。鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜に従った松平容保(まつだいらかたもり)は「後には婦人姿を現し、承れば御侍妾の由、何時の間に御連れ成られ候哉」(『会津戊辰戦争史料集』宮崎十三八)と証言した。長い上洛中、身辺にはやはり女性がいたのだろう。

谷中霊園に並んで立つ慶喜と美賀子の墓石谷中霊園(東京都台東区)には、 慶喜と美賀子が眠る墓石が立 っ て い る。後ろの円墳の左側が慶喜 で、右側が美賀子。
美賀子は大奥には一度も入らなかった。13代将軍・徳川家茂の没後、天璋院は家茂のまた又従兄弟にあたる田安亀之助(たやすかめのすけ)を徳川宗家の次期当主に推したが、慶喜が相続したことで大奥は反発を強めた。美賀子は家茂の葬儀の際、棺に参拝することを和宮に拒まれたともいわれ、江戸城に入ることなく明治維新を迎えた。明治2年(1869)9月、慶喜は美賀子と静岡でようやく再会し、共に暮らす。その後、慶喜は新村信(しんむらのぶ)、中根幸(なかねさち)という側室を迎え、2 人との間に十男十一女をもうけるが、美賀子を実母として育てた。
監修/畑尚子
文/上永哲矢