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【青天を衝け】改名した名は「渋沢栄一」ではなかった!


9月26日(日)放送の第28回では、渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)が新政府に仕えるまでの経緯が描かれた。農民から武士、幕臣から政府の官僚へと転身し、新しい国づくりという篤太夫の宿願を果たすため、その第一歩を踏み出すこととなった。


 

徳川慶喜から最後の命が下される

東京都新宿区にある早稲田大学に建つ大隈重信像。大隈は、50年にわたり渋沢との親交があった。メロン好きが高じて、晩年には新品種「ワセダ」を開発したとの逸話も残る。

 1869(明治2)年10月。明治新政府から篤太夫の元に召喚状が届く。新政府への出仕を求める内容だった。篤太夫らが立ち上げた「商法会所」が軌道に乗ってきた上に、幕府を倒した憎き新政府に仕えるなど言語道断、と固辞したが、主君である徳川慶喜(草彅剛)の勧めでもあると聞き、ひとまず東京へ向かうこととなった。

 

 伊藤博文(山崎育三郎)の案内で篤太夫が向かったのは、自身の配属された大蔵省の上司である大隈重信(大倉孝二)の邸宅であった。敵愾心(てきがいしん)をむき出しにする篤太夫は、任命された租税司の職務は何一つ知らぬから辞任したいと述べる。

 

 しかし大隈は言う。

 

「おいも何も知らん。全くもって新しか世ば始めようとすっとに、そんやり方ば知る者などおいも含め一人もおらん。君は新しか世ば、つくりたいと思うたことはなかか?」

 

 熱弁をふるう大隈の言葉を聞きながら、篤太夫は「この世を変えたい。日本に尽くしたい」と走り抜けてきた今日までのことを思い出していた。

 

 その後、慶喜の元を尋ねた篤太夫は、新政府の想像以上の混乱ぶりを伝えた。このうえは、新政府の転覆した時こそ、我らで新しい日本を守るべきだ、と進言したが、慶喜は静かに篤太夫をいさめた。

 

「私のことは忘れよ。これが最後の命だ。この先は日本のために尽くせ」

 

 主君に別れを告げられた篤太夫は、こぼれ落ちそうになる涙をこらえ、武士になる時に賜った「篤太夫」の名を返上し、元の「栄一」を名乗ることを慶喜に伝えた。慶喜は背中越しに篤太夫に答える。

 

「渋沢栄一。大儀であった。息災を祈る」

 

 栄一は、仕える主君を慶喜から日本へと変え、また新たな道を歩み出した。

 

大隈は慶喜の名を利用して渋沢を説得していた

 

 今回から渋沢は、広く世に知られている「栄一」に名を改めることになった。

 

 しかし、実際にこの頃に改名した名は「篤太郎」(とくたろう)で、「栄一」になったのはもう少し後のことだ。しかも、当初、読みは「エイイチ」ではなく、「ヒデカズ」と読ませていたらしい。それがいつの間にか、「エイイチ」になったようだ。これらは『雨夜譚会談話筆記』で本人が語っていることである。

 

 名前といえば、版籍奉還によって「駿府藩」が「静岡藩」に改称しているが、これにもいきさつがある。駿府藩の正式名称は「駿河府中藩」。この藩名に見られる「府中」が「不忠」に通じる、との訴えがあって「静岡藩」と改められた。新政府に対する恭順という意味がある一方で、おそらく、慶喜を慕って多くの幕臣が大挙してやってきていたこととも無関係ではないと思われる。ドラマの冒頭に少し出てきた向山一履(むこうやまかずふみ/岡森諦)らが中心になって改称を訴えたようだ。

 

 その静岡藩が、新政府に目をつけられていたのはドラマにあった通りのようだ。当時、新政府といえば薩摩藩や長州藩の藩士で構成され、その多くは政治などまるで経験のない下級武士のような立場の人間ばかり。運営にはかなりの無理があった。三条実美(さんじょうさねとみ/金井勇太)も、岩倉具視(山内圭哉)に宛てた手紙の中で「内外、実にもって容易ならざるの情態にて、ほとんど瓦解の色相顕れ……」と憂慮するなど、新政府の先行きに不安を抱くほどであった。素人ばかりだから、当然といえば当然だ。

 

 そこで、彼らが目をつけたのが静岡藩であった。「徳川憎し」とばかりに潰したはずの幕府だったが、皮肉なことに、薩長に比べれば、幕臣の集まる静岡藩には有能な人材が豊富に揃っていたのである。

 

 だからこそ、静岡藩の一挙手一投足には目を光らせていた。ドラマで慶喜が語っていたように、当時、新政府は、慶喜を頭目とした反政府の動きがないかを密偵を送り込んで探らせていたのである。

 

 そのため、渋沢に召喚状が届いた折、静岡藩は無下に断ることができなかった。国のために有益と見込んだ人材を政府に差し出すことができない、と返答すれば、反政府運動の疑念を抱かれることになりかねないからだ。ドラマでは出仕を渋る渋沢に対し、大久保一翁(木場勝己)が「前様(慶喜)のお言葉じゃ!」と説得していたが、実際には静岡藩の立場を懇々と説いて納得させたようだ。

 

 そして、慶喜を利用して渋沢を説得したのは、大隈だったらしい。

 

 ドラマで大隈は八百万(やおろず)の神々を持ち出していたが、渋沢の心が動かされることになったのは、それだけではない。大隈は、ここで仕官を断ると、当然、静岡藩すなわち慶喜が新政府の邪魔をしていると受け取られることになるが、それでよいのか、というようなことを長々としゃべり立てて渋沢に迫ったらしい。これが、渋沢が仕官する決意をした大きな理由になったようだ。

 

 ちなみに、今年(2021年)は大隈の百回忌に当たる。ドラマでは「であ〜る」といった語尾が強調されていたが、大隈は「〜あるんである」といった語尾を多用したことで知られている。

 

 また、東京に到着早々に渋沢が辞任を申し出たように描かれていたが、実際には、わずかな期間ではあるが職務に就いている。拝命の挨拶までしていたようだ。しかし、一体誰が自分を推挙したのかも分からず、「大蔵省には一人の知友もない、またその職務とても少しも実験のない事」(『雨夜譚』)を理由に、すぐさま大隈に辞任を申し出た、というのが経緯だったようだ。

 

 いずれにせよ、期せずして慶喜との主従関係が解消された渋沢は、幕末までの身分に拘泥することなく、より近代にふさわしい人間として活躍していくことになる。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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