伊藤博文を「最も親密なる友人」と評した渋沢栄一
渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち⑨
渋沢栄一は、明治から昭和にかけておよそ500もの企業の創業に関わり、日本経済の礎を築いた一人として知られる。その著書には、幕末以降に交わった数々の偉人たちについての感想や見識が記されている。そんな渋沢が見た伊藤博文とは、どのような人物だったのだろうか。
近代日本の礎を築いた初代総理大臣

山口県萩市にある松下村塾。吉田松陰の開いた私塾で、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、品川弥二郎など多くの人物を輩出。伊藤をはじめ、明治新政府で活躍する者も少なくなかった。
伊藤博文は1841(天保12)年、周防国の農民である林十蔵の子として生まれた。1854(安政元)年、父が長州藩の武士・伊藤家の養子となるに従い、伊藤姓を名乗り、下級武士の地位を得ている。
1857(安政4)年、吉田松陰の松下村塾に入り、尊王攘夷運動に没頭するようになる。1862(文久2)年には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨らとともに英国公使館焼き討ちに参加。翌年には、井上馨らとともに英国に留学。これをきっかけに、攘夷派から開国派へと転身した。
そして1864(文久4)年に帰国。長州藩と列強との講和に通訳として努めた。その後、内紛の只中にあった長州藩をまとめるべく、高杉晋作らとともに決起。武力倒幕に邁進した。
明治維新後は新政府に出仕し、要職を歴任。1869(明治2)年10月には岩倉使節団に参加し、欧米を視察する。帰国後は大久保利通のもとで殖産興業の推進に注力した。
1878(明治11)年に大久保が暗殺されると、参議兼内務卿に着任。急速に発言力を高め、右大臣である岩倉具視の信任を背景に明治十四年の政変で大隈重信を追放すると、政府の実権を握った。
1882(明治15)年には憲法調査のため渡欧。帰国後の1885(明治18)年に内閣制度を創設し、初代総理大臣に就任する。
以降も枢密院議長や貴族院議長など数々の要職を務める一方、政府と政党の深刻な対立を乗り越えるべく、挙国一致内閣を作り上げる努力を重ねた。
1905(明治38)年には、韓国統監府の初代統監となり、韓国併合への道を拓いた。ところが、統監辞任後の1909(明治42)年、満州のハルビンで韓国の独立運動家の安重根に銃撃され死亡した。
渋沢にとって最も親密なる友人だった
渋沢によれば、二人の初対面は1869(明治2)年のこと。当時、静岡藩で働いていた渋沢は、政府に出仕するよう呼び出されて東京に赴いているが、この時に伊藤と会ったのが最初だという(『渋沢栄一伝記資料』)。
当時、大蔵少輔を担っていたことから伊藤は貨幣制度の改革に乗り出しており、そのために1870(明治3)年に渡米している。財政経済を学び、アメリカにならった発展を目指すためだ。伊藤は貨幣制度のみならず、国立銀行制度、公債、憲法など、近代日本にとって必要不可欠なものを直接欧米で学び、日本に持ち込んでいる。
この時の伊藤を、渋沢は次のように振り返っている。
「伊藤さんとは明治二年頃大蔵省時代から大隈(重信)さん等と同様に親しくしてゐて、伊藤さんは極く書生肌であつたから、文章や詩を作って親密にするばかりでなく、他の娯楽のことなども共にしたので懇親の度は一層深かつた。(中略)年齢は私より伊藤さんの方が一歳下であつたけれども、私は先輩として尊敬して居たのである。そして書生まるだしの伊藤さんは実に磊落で、私とは意見を遠慮なく話し会ふ間柄であつた」(『青淵回顧録』)
博識かつ開明的な伊藤のことを、渋沢は「議論好き」と評している。
「頗る議論の好きな方であつた。理が非でも自分の意見を我理無理に通さうといふのでは無い。議論の上で対手を説服して自分の意見を通さうといふのであつた如くに思はれる。(中略)伊藤公の議論は総て論理で築きあげたもので、この手が対手を説服し得ぬ時には他の手で説服するといつたやうな具合に、四方八方から論理づくめで、ピシピシと攻め寄せて来られたものである。その上、伊藤公の議論には必ず古今東西の例証を沢山に引照せられるのを例としたものである。その博引傍証には、一度伊藤公と議論を上下した者は誰でもみな驚かされたものである」(『実験論語処世談』)
一方で、何事にも自分が一番でないと気が済まないという荒々しい一面もあったようだ。
「総じて長州人は薩州人に比すれば、人触りの穏当なものであるから、伊藤公とても決して人触りの悪かつた方では無い。至極穏当なところの仁ではあるが、それでも横合から他人が出て来て、公の知らずに居られるやうな事を知らしてあげようとでもすれば、『そんな事は遠の昔から知つてるぞ』と言つたやうな態度に出られたもので、何事につけ自分が一番豪く、自分が一番物知りになつて居らねば、気が済まなかつた性質がある」(『経営論語』)
そうした性格は、趣味においても同様だったらしい。
「伊藤公は碁なども打たれたが、決して上手ではなかつた。寧ろ下手な方で笊碁(ざるご)の組だつたのだが、それでも猶ほ碁に於て己れが一番だといふ事に成つて居りたがられた方で、如何に盤を囲んで勝負が決まり御自分が敗けになつても、決して自分は碁が下手であるなぞと参つてしまはず、何の彼のと理屈を捏ねあげて、矢張自分が一番碁が上手だといふことにしてしまはれたものである」(『経営論語』)
渋沢が伊藤の死を知ったのは、渡米中の1909(明治42)年10月のこと。朝6時に渋沢を訪ねてきたスプリングフィールド・デイリー・リパブリカン紙の記者から、訃報が伝えられた。記者は渋沢にコメントを求めている。その際、渋沢が残した言葉は次のようであった。
「伊藤公爵暗殺の報は甚だ突然にして余は之を信ずるを躊躇する程なり。然れども今や之を疑ふの余地なきが如し。果して事実となりとせば我国の損失は之に超るものなし。公爵は個人として甚だ寛大に、且つ仁愛の人なり。故に公爵に接近する人は、皆公爵を敬愛せり。然れども公爵は新日本第一の創設者たるを以て、其五十年間に於ける政治生涯中には、暗殺の危険に遭遇せられたること一再にして止まらず。(中略)余の最も親密なる友人なりき。(中略)又何人も公爵の個人的温情に富める人なることを知る。(中略)陛下と国の為めに其生命を擲つは、公爵の満足する所ならんも、余は今や国人と共に深く公爵の死を痛惜す」(『渡米実業団誌』)
ここまで語ると、感極まった渋沢は、その後は一言も発せなくなってしまい、インタビューは中止になったという。言葉の端々に、渋沢の悲痛な様子が伝わってくる。
1869(明治2)年以来、上司と部下として、あるいは政治家と民間人として、40年にわたって交流を続けた伊藤と渋沢。退官して以降は政治の世界から距離を置いた渋沢だったが、信頼して交際のできる数少ない政治家のひとりが伊藤だったことは間違いない。