渋沢栄一が「一生の失策」と悔やんだものとは?
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
12月26日(日)放送の『青天を衝け』最終回「青春はつづく」は、実業界を引退してもなお、日本のために働く渋沢栄一(吉沢亮)の姿が描かれた。最期を迎えるその時まで、栄一は歩みを止めなかった。
日本の行く末を案じながら息を引き取る

東京都台東区の谷中霊園にある渋沢栄一の墓。かつての主君である徳川慶喜の墓のある方角に向けて建てられており、千代や兼子、敬三らの墓と並んでいる。
実業界から完全に引退した栄一だったが、公衆衛生や都市開発、社会事業に取り組むばかりでなく、多くの人と面会するなど、毎日15時間もの時間を仕事に費やしていた。
なかでも、悪化する一方の日米関係の改善は、栄一にとって最大の関心事であった。高齢にもかかわらず、1921(大正10)年にはワシントンで行われる国際会議に合わせて4度目となる渡米を決行。軍縮のみならず移民問題も会議で取り上げるよう訴えた。
1923(大正11)年9月、関東大震災が発生。東京は壊滅的被害を受けた。栄一は海外の知人に呼びかけて寄付を募るなど、被災者の支援に努めた。栄一の声がけにより世界中から義援金や救援物資が届き、胸をいっぱいにする栄一だったが、その頃、アメリカでは排日移民法が上下両院を通過。栄一の努力の甲斐なく、日米関係は悪化の一途をたどっていく。
1931(昭和6)年には中国で大水害が発生。栄一はラジオを通じて人々に募金を呼びかけた。
「手を取り合いましょう。困っている人がいれば助け合いましょう。人は、人を思いやる心を、誰かが苦しめば胸が痛み、誰かが救われれば、あったかくなる心を当たり前に持っている。助け合うんだ。仲良くすんべぇ」
栄一の熱を帯びた訴えは人々の共感を呼び、多くの募金が集まった。しかし、その直後、日本の関東軍が満州・奉天郊外で鉄道を爆破。事件への抗議として、中国は日本からの救援物資の受け取りを拒否した。この満州事変をきっかけに、日本は約15年にわたる戦争へ足を踏み入れることになる。
それからまもなく、栄一は日本の行く末を案じながら、波瀾万丈の生涯を閉じた。その表情は穏やかであった。
追悼式の壇上に上がった敬三(笠松将)は、栄一との思い出を静かに語った。
「偉人というよりむしろ、郷里・血洗島(ちあらいじま)の青空の下で励む一人の青年そのもののような気がしていた。偉人という響きは、どうも祖父には似合いません。失敗したこと、かなわなかったこともすべて含んで『お疲れさん』と、『よく励んだ』と、そんなふうに渋沢栄一を思い出していただきたい」
常にこの世にあって、皆様と共に暮らしたい
「近代資本主義の父」として活躍した渋沢が、実業や経済関係の役職についたのは500社にのぼる。公共や社会事業に関する役職はそれを上回り、600社を超える。
養育院の幹事だった田中太郎の回想によれば、渋沢の最晩年である1931(昭和6)年10月に呼び出され、飛鳥山の邸宅で渋沢と会見している。
この時、渋沢は田中にこう伝えたという。
「過去58年来、院長として苦心した自分の努力が無意義に終わらなかったことが嬉しい」
「少年少女の将来の福祉については今後なお一層心を配ってくれるように」
このように、渋沢は最後まで養育院を気にかけていた。ちなみに、外部の人間が渋沢と面会したのは、この田中との会見が最後だったようだ。
そんな渋沢が「一生の失策」と悔やむのが、関東大震災に際した自らの行動である。
1923(大正12)年9月1日、渋沢は兜町の渋沢事務所で仕事をしていたが、昼頃に大震災が発生。秘書や事務員が駆けつけ、渋沢を玄関先まで避難させている。
余震が落ち着いてくると、近隣にある、より安全な第一銀行に移動した。事務所は屋根が崩れ落ちて容易に屋内に入ることができなかったため、翌朝になったら書類をまとめて第一銀行に移そうと、社員と相談していたようだ。
ところが、それからまもなくの午後3時頃に、あちらこちらで起こっていた火災が渋沢事務所にまでおよんだ。事務所どころか、付近一帯も丸焼けになるほどの火災だったという。事務所には徳川慶喜(草彅剛)の伝記の資料や編纂中であった自身の伝記の資料、また古い手紙などもあったようで、すぐさま資料を拾い上げることもせず、無駄に時間を浪費したことを、渋沢は「自分の不注意、無神経を恥じて、言うさえ腹が立つ位です」と悔やんだという。
渋沢はこの後、内務大臣の後藤新平に呼び出され、救護事務についての相談を受けているというから、齢80を超えてなお、政府に信頼されていた重要人物だったことが分かる。
渋沢は論語による事業経営を訴え、営利の追求も資産の蓄積も道義的でなければならない、と常に主張してきた。すなわち、道徳経済合一説である。そんな渋沢の意思を継いだのが、孫の敬三だ。
敬三については、こんなエピソードが伝わっている。
第二次世界大戦後、渋沢家はGHQに財閥指定を受けることになった。ところが、仔細に調べてみると、渋沢家にはあまりに資産が少ない。そのため、GHQが指定を取り消すと言ってきた。
敬三はGHQの申し出を拒否する。「それでは世間が許すまい」と三田の邸宅を財産税として物納し、自身は小さな家に移り住んだという。
敬三は、後継者と決まって以降も、父・篤二(泉澤祐希)の渋沢家への帰参を願っていたのは事実のようだ。ロンドンに出張していた際に母・敦子(藤松祥子)との手紙のやり取りにおいても、その思いがにじみ出ている。
実は、敬三のロンドン滞在中に、篤二は三田にある渋沢邸に帰ってきており、その知らせは敬三を喜ばせた。しかし、2か月ほど経った後、篤二はまたしても出奔したという。
そんな篤二も、渋沢の容態が一進一退を繰り返すようになる1931(昭和6)年10月頃からは、愛人の玉蝶(江守沙矢)と暮らしていた白金から毎日通って渋沢の看病につとめたという。
渋沢の死からわずか3ヶ月後の1932(昭和7)年1月、心から渋沢を尊敬し、不眠不休で看病を続けてきた長女・歌子(小野莉奈)が死去。同年10月、篤二も病死した。短期間に渋沢家の核となる存在を相次いで失ったことは、後継者の敬三にとっては悲しみのみならず、大いなる不安を抱かせたに違いない。
ドラマの中で、敬三から遺言という形で追悼式の際に披露された言葉は、死の3日前、財界の重鎮たちが見舞いに来ていることを知った渋沢が、伝言という形で残したものである。
「私は帝国臣民として、東京市民として、及ばずながら誠心誠意御奉公して参りました。今後もそうありたいと存じますが、今度はとうてい再起がむずかしく思われます。これは病気が悪いので、私が悪いのではありません。たとえ私は死にましても、魂はみな様の御事業を守護致します。どうか邦家のために御尽力下さい」
この内容は、当時の新聞にも掲載されたようだ。経済人・渋沢による日本に対する思いも伝わってくる。なお、敬三がある追悼式で披露した渋沢の言葉は、次のようなものである。
「自分の気持といふものは、常に此の世にあつて、皆様と共に暮したい、自分は死んだ者として他所他所しく取り扱つて貰ひたくない、死ぬといふのは、私が悪いのじやない、私が死んで行きたくて死んでゆくのじやない、悪いのは病気だから、叱言は病気に言つてほしい。死んでも他人行儀にして貰ひたくないと申して居りました。どうかその気持を皆様も思つて頂きまして、祖父が死にましても皆の心の中のどこかに秘めておいて頂いて、よそよそしくでなく常に愉快に交はつて頂きたいといふ事を遺族として申上げたいと思ひます」(『渋沢栄一伝記資料』)
2024年に刷新される一万円札の図表には、渋沢の肖像が採用された。これからは渋沢がより身近な存在になることは間違いない。
日本の行く末を最期まで案じた渋沢の事業や言葉の数々は、当時の人々はもちろんのこと、現代人にも多くのものを残し、今も大切なものを伝え続けている。