渋沢栄一はノーベル平和賞にノミネートされていた
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
12月19日(日)放送の『青天を衝け』第40回「栄一、海を越えて」では、日本人の排斥運動が高まるアメリカに渡った渋沢栄一(吉沢亮)の様子が描かれた。また、本格的に始まった世代交代を前に実業界を引退し、後継者を定めた栄一は、なおも日本のために働こうという意欲を失わなかった。
息子の篤二を廃嫡し、孫の敬三に跡を託す

東京都北区にある旧渋沢家飛鳥山邸。1945(昭和20)年の空襲でほとんどが焼失し、当時の建物として残るのは晩香廬(ばんこうろ・写真)と青淵文庫のみ。渋沢の民間外交の舞台の一つで、エジソンもこの地を訪れている。
実業界からの引退を表明した栄一は、60以上の会社を辞職した後、日本人の排斥運動が起こっているアメリカへ渡った。日米親善のため、いわば民間外交を自ら買って出たのである。
栄一は91日間をかけ、60都市をまわり、70回にも迫る講演や演説を行った。過密スケジュールをこなす旅の途上、栄一は伊藤博文(山崎育三郎)がハルビンで暗殺されたことを知らされる。
その直後、排日運動の激しいサンフランシスコでの講演に臨んだ栄一は、用意されていた原稿を途中で放り投げ、自らの言葉でアメリカ人の聴衆に語りかけた。
「互いが嫌がることをするのではなく、目を見て、心開いて、手を結び、みんなが幸せになる世を作る。私はこれを世界の信条にしたいのです」
鬼気迫る栄一のスピーチに、出席していた多くの人が万雷の拍手を贈り、栄一の理念を称賛した。
1911(明治44)年、栄一の嫡男・篤二(泉澤祐希)が妻子を捨て、芸者とともに同居を始めるという醜聞が新聞に掲載された。栄一は、篤二の苦しみに気づけなかった自身の過ちを認めつつも、篤二の廃嫡を決意する。
その翌年、明治天皇が崩御。元号が明治から大正に変わるとともに、長年苦楽をともにしてきた渋沢喜作(高良健吾)も死去した。さらにその翌年、旧主・徳川慶喜(草彅剛)も、自身の伝記の原稿に丁寧に修正を入れた後、「快なり!」の言葉を残して亡くなった。
そんななか、栄一は篤二の息子である、孫の敬三(笠松将)に、後継者になってほしいと頼み込む。生物学者を志していた敬三の気持ちを知った上での懇願だった。そして、実業界から日本を支えることを己の使命としてほしい、と頭を下げるのだった。
後継者指名に動揺した敬三は落第していた
渋沢がアメリカを訪れたのは、生涯で4回。最初が前回のドラマで描かれたセオドア・ルーズベルト大統領(ガイタノ・トタロ)と会見した1902(明治35)年だが、2回目が今回描かれたもので、1909(明治42)年のこと。各地で講演や演説を行うほか、多くの視察にも訪れている。かの発明家トーマス・エジソンの電気工場を訪れたのも、この時だ。エジソンと親しく交流するようになったのは、この時からである。3回目は1915(大正4)年、最後の訪米は1921(大正10)年だった。
今回描かれた2回目の訪米の目的は、「われわれ実業家の手で、アメリカの太平洋沿岸の一部に排日の思想があるのをいくぶんかなりとも沈静化させ、両国の親善を増し、その通商を発展させようという」(『渋沢栄一伝記資料』)ものであった。
平和を希求する渋沢の努力はその後も続いた。渋沢の掲げる理念や示してきた行動は海外で高く評価され、1926(大正15/昭和元)年と1927(昭和2)年にはノーベル平和賞の受賞者にノミネートされるほどであった。平和を求める民間外交の実践者として、渋沢は「グランド・オールドマン(老偉人)」と称えられている。
さて、そんな渋沢を悩ませたのが、嫡男・篤二の不行跡である。
妻子を捨てて家を出て、美人芸者の玉蝶(江守沙矢)と住み始めた、すなわち今で言う不倫騒動が新聞に報じられたのは、1911(明治44)年5月26日のこと。これを機に、篤二は廃嫡となっている。
伝記編纂事業を通じて、篤二は徳川慶喜と面識があった。篤二の取り巻きのなかには、慶喜の取りなしで渋沢の怒りを鎮めてもらおうと慶喜に接近を図る者もあったらしい。慶喜と渋沢との間の絶対的な主従関係を知っていたからこそのはかりごとである。長女の歌子(小野莉奈)は、どこからかその計画を知ったようで「実にあきれ返りしこと」と怒りと悲しみの入り交じった感情を漏らしていたという。
それでも歌子は最後まで篤二を擁護すべく奔走した。
亡くなった渋沢喜作の弔問に出掛けた帰りに、歌子は渋沢の元を訪れ、喜作の死に免じて、篤二の処分を緩めてもらうよう懇願したという。しかし、渋沢が首を縦に振ることはついになかった。
渋沢の四男である秀雄の回想によれば、渋沢は篤二が愛人を作っただけならいざ知らず、妻を追い出して、代わりに愛人の芸者を家に入れるとまで言っていたことに「人倫にもとる」と不快感をあらわにし、廃嫡を決めたらしい。
こうして1913(大正2)年1月、東京地裁に篤二の廃嫡が申請され、まもなく受理された。当時の新聞には、「身體繊弱にして家政に堪へず相續人として不適當なり」という理由が報じられている。
篤二の廃嫡後、渋沢家の跡取りに白羽の矢を立てられたのが、篤二の息子である敬三だった。
ある日、渋沢が湯河原で静養していた時のこと。学校の休みを利用して敬三が遊びに来た。その頃、渋沢は完成間近となった慶喜の伝記の序文を執筆していたところだったので、原稿を敬三に渡し「声をあげて読んでほしい」と頼んだ。
言われるがまま、敬三は序文を読み上げている。はじめはどうということもなかったが、読むうちに敬三は涙ぐみ始め、ついには嗚咽して、それ以上読めなくなってしまった。主君・慶喜や、日本という国に対する渋沢の熱い思いが胸に迫ってきて、こぼれる涙を止めることができなかったのだという。
これは、敬三が息子の雅英に語ったエピソードとして伝わっているが、どうやらこの時に、渋沢は孫に対する見方を変えたらしい。渋沢家の跡取りとして敬三を強く意識し始めたのは、この時だったと考えられる。
篤二が放蕩の限りを尽くしたのは、渋沢栄一という希代の人物の跡取りという重圧に耐えきれなかったから、とよく言われる。
その重圧は、そのまま敬三に引き継がれた。正装した渋沢に跡取りになってほしいと土下座で頼み込まれた敬三は、当時、中学の卒業試験間近の時期だった。結局、敬三は卒業試験に落第して1年浪人したというから、父の廃嫡と後継者指名に、相当に動揺したようだ。