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暴漢の襲撃以外にも受難が続いた渋沢栄一

史実から振り返る今週の『青天を衝け』


12月5日(日)放送の『青天を衝け』第38回「栄一の嫡男」では、日本が近代国家となっていく過程で、幅広い事業を手掛ける渋沢栄一(吉沢亮)の姿が描かれた。一方で、跡を継ぐべき嫡男・篤二(泉澤祐希)が不行跡を重ねていることや、かつての主君である徳川慶喜(草彅剛)に対する世間の誤解が解けぬままであることに、栄一は胸を痛めていた。


 

江戸幕府最後の将軍が東京に帰還

熊本県熊本市にある五高記念館。篤二の入学した第五高等中学校の旧本館で、国の重要文化財。篤二が入学した頃は作家のラフカディオ・ハーンが、1896(明治29)年には夏目漱石が赴任して英語教師を務めている。

 

 1889(明治22)年の夏、東京・上野では、旧幕臣らの企画で、徳川家康(北大路欣也)の江戸入府300年を祝う「東京開市三百年祭」が行われていた。維新から20年余り。この頃になると、日本古来の伝統を重んじる風潮や、江戸の世を再評価する機運が高まっていたのである。

 

 そんななか、栄一は多忙を極める毎日を過ごしていた。銀行業を中心に製紙、紡績、鉄鋼、建築など、栄一の関わる事業は幅広く、また女性育成のための学校設立や病院、養育院など福祉にも力を入れていた。

 

 そんな父の多忙をよそに、嫡男の篤二は友人たちと遊び回っていた。長女の歌子(小野莉奈)が夫の穂積陳重(ほづみのぶしげ/田村健太郎)とともに何度も叱りつけたが、反省する素振りは見せるものの、品行が改まる様子はない。熊本の学校に通わせても、女性と駆け落ち同然で逃げ出す始末。やむなく栄一は、故郷の血洗島(ちあらいじま)での謹慎生活を篤二に言い渡した。

 

 その年の冬、栄一は暴漢に襲われた。「売国奴!」と罵られたことから、栄一は水道管の納入問題に起因するものと推測した。水道の整備にあたり、水道管は安全性の面から、国産よりも舶来品を選ぶべき、と主張していたからだ。栄一は、コレラがまだ蔓延しているのは、飲み水に原因があると考えていた。そのため、水道は確実に安全でなくてはならない。コレラは妻の千代(橋本愛)の死因になった感染症だ。栄一はつぶやく。

 

「過去の過ちは忘れてはならない」

 

 忘れてはならないのは、かつての主君である慶喜の処遇も同様であった。慶喜に対する世間の風当たりはまだまだ厳しい。しかし、栄一ら旧幕臣は、幕末から維新にかけての慶喜に多大な功績があったことを人々が知らされずにいることに憤慨していた。

 

 そこで栄一は、慶喜に伝記を作らせて欲しいと願い出る。慶喜はきっぱりと断るが、栄一は「私は、諦めません」と食い下がった。

 

 その頃、日本は日清戦争に勝利。これは、日本が西洋列強に並ぶ文明国に近づいたことを意味する。これを契機に、栄一は静岡で隠遁生活を続けていた慶喜を東京に呼び寄せた。

 

 維新から約30年後、江戸幕府最後の将軍だった慶喜は、ようやく東京に戻ってきたのだった。

 

篤二の「大失策」は決して明かされることのない渋沢家のタブーだった?

 

 1886(明治19)年以降、日本国内は空前の企業勃興の流れにあった。近代的産業の発展に大きく寄与したのが渋沢であることはいうまでもない。

 

 企業の隆盛はこれまでにない好景気を生んだが、1890(明治23)年には恐慌が襲っている。近代的な資本主義を導入した日本にとって初の恐慌となるが、これは好景気と不景気が循環して起こる景気循環のためであり、ある意味避けられないものでもあった。

 

 前年には農作物も不作となっており、米価が高騰。国内の株価暴落も相まって、恐慌はより一層の深刻さを呈していた。なお、この不況は全世界的に同時期に見られたものでもある。

 

 こうした恐慌を吹き飛ばすことになったのが、日清戦争であり、その勝利であった。戦争に使用される軍需品製造が国内産業を潤し、国民の収入は増えた。戦争が勝利で終わると抑圧されていた購買力が解放され、日本は再び好景気へ向かうことになったのである。

 

 さて、今回のドラマでは、遊び癖の抜けない篤二が熊本の第五高等中学校での寮生活を余儀なくされている。在学中の篤二から渋沢家に「ワタクシダイシツサク。イサイユービン」との電報が届いたのは1892(明治25)年11月のこと。具体的にどういった「失策」だったのかは明かされておらず、渋沢の記録にも残されていない。

 

 毎日の出来事を克明に残していた歌子の日記にも「失策」の内容は書かれていない。渋沢も歌子も、あえて書かなかったと考えられている。身内として決して後世に残してはならない不祥事だったのかもしれない。ただし、歌子の日記には次のような一文が見える。

 

「大人(渋沢のこと)を始め方々の厚き慈愛の程も知らず、自ら身を捨てる如き処為をなすは以ての他なりと、よくよく申し聞かせたる」

 

 ドラマの中では篤二が女性を連れて大阪に逃げ出したことになっているが、実際は渋沢家の使者が東京から熊本に迎えに行っている。それにもかかわらず、篤二は置き手紙を残して遊びに出掛けていて不在。ようやく捕まえて東京に向かう帰り道に立ち寄った大阪でも、遊所に行きたいと駄々をこねたらしい。

 

 篤二が「失策」を犯してから約一か月後の1892(明治25)年12月に渋沢は暴漢に襲われている。ドラマでは襲撃したのは1人だけだったが、実際は2人だ。

 

 この日、渋沢は病に伏せる伊達宗城(だてむねなり/菅原大吉)の見舞いに出かけるところだった。ドラマでも語られているように、刺客らの動機は、渋沢が水道事業にかかわる水道管を国産ではなく舶来品を使用すべきと主張したこと。渋沢は瓦斯(ガス)事業や造船事業を手掛けていることもあり、国内の鋳造技術がまだまだ海外製に劣ることを知っていたのである。そのため、安全を考慮すれば海外製を用いるべきであるとの立場だった。

 

 水道事業は予算600万円という当時の一大プロジェクトであり、鋳造を担う会社にとっては垂涎(すいぜん)の事業だった。折しも日清戦争(18941895年)が間近に迫っていた時期であり、国民の間ではナショナリズムが高まっていた頃。渋沢の回想によれば、海外製の導入を主張する渋沢は外国商人から手数料を受け取っていると言いふらしていた連中に、刺客の2人は焚きつけられたのだという。「売国奴」という罵倒には、こうした背景もあった。

 

 渋沢襲撃事件で逮捕されたのは、千木喜十郎(岡元次郎)と板倉達吉という石川県の士族。2人は投獄されたが、証人として裁判の席に立った渋沢は、寛大な処置を要望した。板倉は獄中で病死。千木は減刑されて1899(明治32)年に出獄した。

 

 出獄後しばらくして、千木が生活に困窮していると伝え聞いた渋沢は、すぐさま金を送ったという(『渋沢栄一伝記資料』)。礼に訪れた千木に対し、渋沢は「真面目に仕事をするよう注意を与えて帰した」(『青淵回顧録』)。

 

 なお、水道事業は結局、渋沢の意見は容れられずに、国産の水道管が採用された。事業のために新設された鋳鉄会社は大量の水道管を鋳造したが、不良品が多く、さらに納期にはとても間に合わなかった。しかも、検査に不合格のものまで強引に納品して工事が進められたため、いったん埋めた水道管を掘り起こして、海外製のものを埋め直すという膨大な時間とコストのロスも生じた(『青淵回顧録』)。図らずも、渋沢の見識が正しかったことが証明されたのである。

 

 ちなみに、ドラマでは謹慎を命じられていた篤二があっさりと東京に戻ってきているが、これは篤二が押し込められた、渋沢の実家である「中の家」が焼失してしまったことによる。出火の原因は不明。渋沢が暴漢に襲われた、わずか数日後のことであった。篤二の「大失策」の電報からわずか一か月の間は、渋沢家にとってこの上ない災難続きだったのである。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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