平氏打倒のため父・時政と挙兵した北条義時17歳の初陣
今月の歴史人 Part4
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が好スタートを切り、ますます注目を浴びる源平の歴史。今回は源頼朝が挙兵するに至った経緯と、それに対する北条時政・義時の関わりについて、史料に基づき、解き明かす。
■内密なことは北条時政にしか話さなかった源頼朝の信頼

以仁王(もちひとおう) 後白河天皇の第三皇子で、源頼政の勧めによって源氏に平氏追討の令旨を発した。しかし、計画が漏 れて失敗。宇治川の戦いで戦死。(東京国立博物館蔵/ColBase)
治承4年(1180)5月、後白河法皇の皇子・以仁王は、平家打倒を目指し、挙兵する。挙兵を成功させるため、王は、各地に点在する源氏に決起を促す令旨(皇族の命令を伝える文書)を送る。令旨は頼朝がいる北条邸にも届く。『吾妻鏡』に よると、それは同年4月27日のことであった。令旨をもたらしたのは、頼朝の叔父・源行家(ゆきいえ)。頼朝は水干(すいかん)を着て、京都の石清水八幡宮(源氏の祖先神を祀る)を遥拝し、謹んで令旨を受け取ったとされる。

日本三大八幡宮のひとつに数えら、国宝に指定される石清水八幡宮(京都府八幡市)。源氏の祖先神を祀るこの場所で源頼朝は以仁王の令旨を受けたという。
注目すべきなのは、同書に「最初に北条時政を招き、令旨を開いて見た」ということだ。頼朝が時政のことを信頼していたことが分かろう。『吾妻鏡』には、時政は頼朝に「無比の忠節」を誓っていると記されており、だから、頼朝は時政を招き、令旨を共に見たとある。
しかし、頼朝は令旨を貰ってすぐに挙兵したわけではない。挙兵しようにも、僅かの兵力しかなかったからだ。平清盛は、以仁王と共に挙兵した源頼政の残党追討を大庭景親(おおばかげちか)(相模国の有力豪族)に命じる。伊豆国は平家の知行国となり、頼朝たちはいつ自らも討伐されるか予断を許さない状態に戦々恐々とする。そして、平家の圧力に苦しむ伊豆や相模国の武士らを糾合し、頼朝はついに起つ。8月17日のことである。

石橋山・箱根・江ノ島図 狩野養川(惟信)が描いた 石橋山図。石橋山の戦いで敗れた頼朝が、箱根山、江ノ島を経て安房国へと逃げ延びるが平家の武将たちが頼朝を探している様子を描いている。(東京国立博物館蔵/ColBase)
頼朝は挙兵前に、加勢してくれた武士に対し「お前だけを頼りにしている」とひとりひとりに声をかけたという。しかし、本当に内密なことを北条時政にしか話さなかったと言われる(『吾妻鏡』)。頼朝と北条氏との間にかなりの信頼関係があったことがこの逸話からも窺えよう。
頼朝は挙兵するが、その最初の標的となったのが、平(山木)兼隆(かねたか)である。兼隆は伊豆の目代(代官)であり、平時忠(清盛妻・時子の弟)に仕えていたこともある人物だ。頼朝は邸にいて、時政らが出陣していく。『吾妻鏡』には記述はないが、おそらくその中に、嫡男の宗時や次男の義時もいたはずだ。ちなみに『源平盛衰記』(巻 、鎌倉時代の軍記物語)には「時政は夜討の大将の役目を頼朝から命じられ、嫡子・宗時を先発させ、弟の小四郎義時、佐々木太郎兄弟4人、土肥、土屋、岡崎、佐奈田与一(さなたよいち)、懐島平権頭等(かいしまだいらごんとう)を始として」とあり、宗時や義時も戦に出陣したことが窺える。
おそらくこれが義時の初陣だろう。平兼隆を討つ前に、その後見役の堤信遠(つつみのぶとう)を殺しておかなければ面倒なことになるとの時政の言葉により、急遽、佐々木氏が信遠を討つことになったと『吾妻鏡』は記す。時政の抜け目なさを現している。
■北条義時の兄・宗時が石橋山の戦いで戦死。父と甲斐に向かった義時
時政らは兼隆の館を襲撃。そこに信遠の討伐を終えた佐々木らも加わったために、戦は頼朝方の勝利に終わる。兼隆は討ち取られた。当日は、三島神社の祭礼があり、兼隆の館の警備が手薄であったことも勝利の要因であろう。
しかし、8月23日、平家の家人・大庭景親との石橋山(現・小田原市)の戦いにおいて、頼朝軍は大敗する。時政の長男・宗時は、伊東祐親の軍兵に包囲され、戦死してしまう。
時政と義時は宗時と別行動をとっていたために無事であった。宗時戦死の報を父・時政がどう受け止めたか。それを物語る史料は残されていないが『吾妻鏡』建仁2年(1202)6月1日の項目に「時政は、伊豆の北条へ行かれました。夢のお告 げがあって、石橋山合戰で亡くなった息子の北条宗時の追善供養をするためです」とあるので、どれだけ時が経っても、亡き息子の死を忘れず悼んでいたと思われる。義時も兄の死を悲しんだと推測される。

源頼朝 以仁王の令旨を契機として挙兵を決意。石橋山の戦いで敗れるも、 富士川の戦いで勝利。参じてきた弟の義経の活躍で平家を滅亡させた。(東京国立博物館蔵/ColBase)
さて、敗戦により、頼朝は箱根山から真鶴半島へ逃れ、8月28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。
一方、時政と義時は頼朝の命令により、甲斐国に向かった。甲斐源氏(武田氏、安田氏ら)を説得し、味方につける任務を命じられたのであった。若い義時は安房国に行き、時政のみが甲斐に赴いたとの説もある。
監修・文/濱田浩一郎