北条氏と協調し幕府運営を支えた「三浦氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑥
3月6日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第9回「決戦前夜」では、大軍となった源頼朝(大泉洋)軍と、それをさらに上回る平維盛(たいらのこれもり/濱正悟)率いる平家の追討軍との対峙が描かれた。頼朝を出し抜こうとする、同じ源氏の血を引く武田信義(八嶋智人)の思惑もはらみながら、しかし、この一大決戦には意外な結末が訪れた。
中央から派遣された追討軍を撤退させる

神奈川県横須賀市の衣笠城跡に立つ、三浦大介義明公八百年記念碑。頼朝挙兵時に畠山重忠の攻撃を受けた義明は、「源家累代の家人として」との言葉を残して義澄らを逃がし、自らは壮絶な討死を果たした。89歳という高齢だった。
祖父の伊東祐親(浅野和之)と、その娘の八重(新垣結衣)を救うべく、伊東の館に向かった北条義時(小栗旬)と三浦義村(山本耕史)は、襲撃直前に館に到着。義時の決死の説得が功を奏し、無事に二人を保護することに成功した。義時と北条政子(小池栄子)の助命嘆願の結果、祐親は三浦家の預かりとなり、八重は鎌倉の御所で侍女として働くことになった。
1180(治承4)年10月13日、平家より派遣された追討軍が駿河国(現在の静岡県の中部と北東部)に迫った。軍勢の数は5万とも7万とも見られるという。源頼朝は追討軍を迎え撃つべく、甲斐国(現在の山梨県)の武田信義の軍勢が着陣した黄瀬川へ軍を進めた。
同年10月20日、平維盛率いる追討軍は、黄瀬川から少し離れた、富士川の西岸に布陣する。
武田軍の陣中見舞いに訪れた頼朝は、合戦の期日を明後日とする信義の提案を受け入れた。ところが、その日の深夜、信義は平家の軍勢が陣を布いた富士川の対岸へと全軍を動かした。追討軍に夜襲を仕掛け、頼朝を出し抜くつもりである。
その頃、富士川沿いでは義時の父である北条時政(坂東彌十郎)と義村の父である三浦義澄(佐藤B作)が口論におよんでいた。成り行きで時政が突き飛ばしたところ、義澄は水辺に転んだ。その音に驚き、水鳥たちが一斉に飛び立った。
数万羽の羽音が鳴り響くと、追討軍は大軍勢による敵襲と勘違いし、慌てて撤退を始めた。
これを好機と見た頼朝は追撃を命じるが、配下の坂東武者たちはこぞって軍勢を引き揚げるという。兵糧が不足している者あり、留守中の所領に不審な動きを察知した者あり。「平家を倒すのは二の次」と、多くの者が所領へ戻っていった。
坂東武者たちのやむない事情に、頼朝は追撃を断念。肩を落として義時に尋ねる。自分と坂東なら、どちらを取るか。返す言葉を必死に探す義時だったが、答えられない。
「とどのつまりは、わしは一人ということじゃ。流人の時も、今も」
そこへ、頼朝の側近である安達盛長(野添義弘)が一人の若武者を連れてくる。頼朝の弟・源義経(菅田将暉)だった。頼朝の挙兵に伴い、奥州から駆けつけたのだという。
兄弟は抱き合い、涙ながらに再会を喜んだ。
100年にわたって源氏に付き従った「三浦氏」
三浦氏のルーツは、大庭氏や上総氏らと同様、桓武平氏とされる。
比較的に信頼のおける系図『尊卑分脈』によれば、高望王の子である良茂の孫・公義が相模国(現在の神奈川県のほぼ全域)三浦に住み始めた頃から、「三浦」を名乗ったという。
一方、江戸時代に編纂された『群書類従』に収められている「三浦系図」によれば、高望王の子・良文の孫である為通(ためみち/為道とも表記)が、同じく相模国三浦領の衣笠城(神奈川県横須賀市)を居城とした頃から「三浦」を名乗ったとする。
鎌倉幕府の公式記録というべき『吾妻鏡』では、ドラマに出てくる三浦義澄自身は、三浦平太郎為継(ためつぐ/為次との表記も)を始祖と見なしていることが記されている。
三浦為継は、前九年の役の顛末を記した『陸奥話記』や後三年の役を描いた『後三年戦記』などにその名が見られ、「相模のつわもの」と評されている。
為継の父にあたるのが、為通だ。為通は前九年の役(1051年)の際に源頼義に命じられて奥州征伐に加わり、戦功を立てた。この時に三浦半島を所領として与えられた、といわれている。
先述したように、為通は衣笠城を三浦氏の居城としている。この城は康平年間(1058〜1065)頃の築城とされており、前九年の役が終戦を迎えた1062(康平5)年と一応は符号する。
その一方、所領として与えられるより前に、為通はすでに三浦半島の開発領主として根付いていたとする見方もある。
いずれにせよ、義澄が始祖と見る為継の父の代から源氏の配下となっているわけで、三浦氏と源氏との関係は長い。
為継の子の義継は、頼朝の父である源義朝の命に従い、1144(天養元)年に大庭氏の所領である大庭御厨(おおばみくりや/現在の神奈川県藤沢市の一部)に侵攻するという軍事行動を起こしている。
義継とともに大庭御厨侵攻に携わった、子の義明はドラマの中で名前だけ登場する。義明は三浦義澄の父であり、三浦義村の祖父にあたる人物だ。
それまで付き従ってきた義朝が平治の乱に敗れると、相模国は平清盛と結んだ大庭景親が勢力を伸ばすこととなり、義明ら三浦氏の権限は日に日に浸食されるようになっていく。
こうした歴史を紐解いていくと、1180(治承4)年8月の頼朝挙兵に伴い、三浦氏が迷うことなく源氏方についたのは頷けるところだ。
実は、義澄が挙兵について事前に頼朝と話し合っていたのではないか、と思われる記述が『吾妻鏡』に出てくる。
挙兵直前となる同年6月に、京都での役割を終えて帰郷した義澄がすぐさま北条の館に赴き、頼朝に謁見しているのがそれだ。『吾妻鏡』には、こうある。
「武衛(頼朝のこと)、件の両人(三浦義澄と千葉胤頼のこと)に対面し給ひ、御閑談、刻を移す。他人、之を聞かず」
つまり、頼朝と義澄、そして胤頼(たねより/千葉常胤の六男)の三人が密談をしていたという。内容は明かされていないが、三浦氏と源氏との深いつながりを物語る記述である。
こうして見てみると、三浦氏よりずっと勢力の小さい北条氏が、頼朝との姻戚関係を後ろ盾に源氏方の中心になっていることに、義澄としては思うところがあったかもしれない。しかし、義澄や義村の胸の内を知ることはできない。
ともあれ、義澄も義村も、鎌倉幕府創設になくてはならない重要な人物であったのは歴史が証明している。特に義村は、義時の幕府運営を陰に陽に支え続けた。なお、義澄は、ドラマのタイトルである『鎌倉殿の13人』のうちの1人である。