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頼家の生涯に影を落とした「梶原景時の変」【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇③

頼朝の没後に頼家側で権限の強化を図る

梶原景時親子供養塔
狐ヶ崎の付近には複数の墓所や五輪塔が存在する。自害した地といわれる梶原山は現在はハイキングコースとなっており、富士山を見晴らす山頂には景時・景李の供養塔がある。

 建久3年(1192)、景時は侍所別当(長官)に就任する。しかし、その就任には裏があったようで、景時が和田義盛(わだよしもり)に1日だけでも長官職を譲って欲しいと懇願、そのまま別当(べっとう)職を強奪したという(『吾妻鏡』)。が、この記述もどこまでが真実かは分からない。

 

 正治元年(1199)正月、景時を重用した源頼朝が亡くなっても景時は政権中枢にいた。後継の頼家に訴訟の取次ができる御家人(宿老)の中に景時の名が見える(『吾妻鏡』4月12日)。同月20日、景時は中原仲業(なかはらなかなり)と共に政所に紙を張り出したという。その紙には頼家の近臣5人以外が特別の許しを得ず、頼家の御前に参上してはいけないという内容などが書かれていた。

 

 この行為について「12日の決定は北条氏ら有力御家人が頼家の権力を制限しようとする動きであるのに対し、20日の書下は、むしろ頼家の側近勢力の権限強化を意味する。そしてこの短期間における抗争の中で両方に関わっている点で、景時の態度は曖昧で不明確なように見える。あるいは景時自身が、いずれの側に就くべきか去就に迷っていた結果かもしれない」(山下幸司『頼朝の天下草創』講談社、2001年)との見解もある。

 

 しかし、この決定は頼家の権限を制限しようとしたものではなく、取次を13人に絞るとしたものだ。そうしたことを踏まえた時、景時の行動に矛盾はないように思う。景時は、宿老の一人として自らの権限を強めつつ、頼家とその近臣の側に立って行動しているのだ。景時の妻は頼家の乳母でもあったので頼家と景時も強い関係性があったのだろう。景時の行動は、頼家の側近と組んで頼家を囲い込んでいるように見える。その後、景時は失脚してしまうが、それは景時の行為が御家人の反感を買ったゆえと推測される。

 

『吾妻鏡』は、景時失脚の契機を次のように記す。正治元年10月25日、御所で結城朝光(ゆうきともみつ)が、頼朝の死を悼み「忠君は二君に仕えず」との言葉を発する。その2日後、阿波の局(あわのつぼね/北条時政の娘。義時の妹)が朝光に「梶原景時の讒言により、貴方は殺されてしまいますよ」と告げたことにより事態は急変。朝光は驚き、その事を三浦義村(みうらよしむら)に告げると義村は他の御家人への相談を勧める。

 

 和田義盛や安達盛長(あだちもりなが)らに相談すると、彼らは更に同志を集め、景時の弾劾を提案。同月28日、景時に不満を募らせる御家人66人が鶴岡八幡宮に集合し景時への対抗を誓うのである。宿老である北条時政・義時の弾劾状への反応は分からない。比企能員はメンバーには加わっているものの、具体的な動きは不明だ。

 

 景時弾劾状は、大江広元を経由して頼家に提出された。

 

弾劾を受けた景時は弁解をせずに下向

 

 弾劾状を見た頼家は、それを景時に見せた上で、内容について弁解するよう伝えたが、『吾妻鏡』によると、景時は何も弁解せずに、親族を引き連れ、相模国に下向してしまう(11月13日)。この時、景時が言い訳をしなかった理由は分からないが、三男の梶原景茂(かげもち)だけは鎌倉に残留させている。景茂は源頼家に呼び出された時に景時を弁護する内容を言上しているので、弁護役を期待されたのかもしれない。また、一族の連絡役として残された可能性が考えられる。

 

 貴族・九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』には景時弾劾の別の側面が記される。それは「景時は、他の武士の謗そしりを受けたため、頼家に対し、千幡(せんまん/頼家の弟。後の源実朝/みなもとのさねとも)を主君として擁立する動きがあると訴える。頼家は他の武士にこの事を問い合わせた所、武士らは景時を召して討論させてくださいと要請。討論したところ、景時は舌を巻き、抗弁できなかった。これにより、景時とその子息は鎌倉を追われた」との記述だ。

 

 景時は敵対する御家人らを頼家に讒言し、逆に返り討ちにあったことになる。しかし、弁舌に優れた景時が抗弁できなかったことを考えると、景時の今回の発言は証拠が不十分だったのだろうと思われる。

 

再度鎌倉を追放されて上洛を図った景時

 

 11月13日に鎌倉から退去した景時であるが、同年12月9日には一度、鎌倉に戻っている。が、数日後の同月18日に、再び鎌倉を追放され、再び相模国一宮(いちのみや)に戻る。

 

 なぜ景時は一度鎌倉に戻ってきたのか。これは想像するしかないが、一つには、少しは弾劾(だんがい)のほとぼりも冷めただろうと思い、戻ってきた。二つ目は、自分(景時)が余りにも長期間、鎌倉を離れて、権力基盤が完全に崩れてしまうのを恐れて戻ってきた。三つ目は『吾妻鏡』によると、鎌倉では12月18日に至るまで、景時の罪について連日検討が行われていたとのことなので、景時は鎌倉に舞い戻り、その審理に少しでも自分に有利な影響を与えたいと考えたか、この三つであるように思う。しかし、景時の願いは叶わず、追放され、鎌倉の景時の邸は破壊された。

 

 景時は一宮に城郭を構え、攻撃に備える態勢をとっていたというが、翌年(1200)正月20日、景時は一族と共に、一宮を離れた。

 

『吾妻鏡』は、景時のこの行動を謀反のため上洛しようとしたと記す。景時は、当時の朝廷の実力者・源通親(みなもとのみちちか)と親密であった。その縁故を頼り上洛を図ったのだろう。

 

 鎌倉では、景時の行動を受けて、北条時政・大江広元(おおえひろもと)・三善康信(みよしやすのぶ)らが御所で対策を協議。景時を討つため、三浦義村や比企能員(ひきよしかず)らの軍勢を派遣することが決定される。ところが、彼らが来る前に、景時とその一族は駿河国清見関(するがのくにきよみがせき)において、近隣の武士らと合戦となり、討ちとられてしまう。

 

 近隣の武士らは最初、射的のために参集していたが、それが終わり解散しようとした時に景時一行と出会ったという(『吾妻鏡』)。

 

 武士らは、景時らを怪しみ、弓矢を射かける。在地の武士、廬原(あしはら)小次郎・三沢小次郎・飯田五郎が景時らを追撃したので、景時は狐崎(きつねがさき/静岡市清水区)に引き返し、彼らと戦う。飯田四郎はこの時、景時方に討ち取られた。そこに、吉香小次郎(友兼)・渋川次郎ら地元の武士が駆けつけ加勢。吉香小次郎は、梶原景茂と一騎打ちをするが、両者相打ちとなる。

 

 更に駿河国の御家人たちが攻撃を仕掛けてきたので、梶原六郎景国、七郎景宗、八郎景則らは弓矢などで奮戦するも、ついに討たれる。

 

 景時とその嫡男・景季(かげすえ)、その弟の景高(かげたか)も、背後の山に退きつつ戦うが、最後には討たれてしまう。彼らの死体は残っていたが、首は見つからなかったという(景時とその子息の首は翌日1月21日に発見され、晒される)。

 

景時の没落が頼家の生涯にも影を落とす

 

『愚管抄』の著者・慈円(じえん)は、景時を「鎌倉の本体の武士」、源頼家の「一の郎党」と認識していた。景時の権勢の大きさを窺うことができるが、その景時であっても、源頼家に見放されたら、あっという間に没落してしまうのである。景時没落に関して、北条氏の影は薄い。景時弾劾状には北条時政・義時父子の名はない。ただ、阿波局(時政の娘)が結城朝光に景時の頼家への讒言を伝えたことや、時政は景時が討たれた駿河国の守護であったことから、裏で何らかの糸を引いていた可能性もある。

 

『吾妻鏡』には「景時謀反」の情報は、1月20日の午前8時に鎌倉に入っている。それから、鎌倉で対策が協議され、追討軍が派遣される。その後午後11時頃、地元武士と景時らの間で戦が行われている。

 

 この一連の流れを見たら、追討の手際が良い。また、この時、地元の武士に景時追討の直接命令は出ていなかったようだ。そのような状況で、地元武士が景時らを襲撃したことは、これより以前に「怪しい者(景時ら)が通りかかったら、討ち取れ」との指令が出ていた可能性を思わせる。誰からの指令か? それは駿河国の守護である北条時政ではないか。地元の武士は、北条氏の命令を受け、景時を待ち伏せしていたのではなかろうか。そうしたこともあり、梶原景時への攻撃の裏に、北条氏の陰謀を描いた説は昔から主張されている。北条氏陰謀説は、ある意味「通説」と言って良いかもしれない。

 

 景時は多くの有力御家人から排斥され、滅亡に追い込まれた。源頼家派というべき比企能員(ひきよしかず)とも、景時は連携できていなかった。更には、源頼家にも最終的には見捨てられた(頼家は多くの御家人から弾劾された景時を庇うことはできなかったと見ることもできよう)。

 

『愚管抄』は、頼家が景時を庇わなかったことを失策と断じる。頼家の手足の一つをもがれたに等しいからだ。後年の頼家の没落を考えると、景時という腹心を失ったことはかなり痛いと言うべきだろう。景時没落は、頼家の生涯にも影を落としたと言えよう。

 

 景時敗死の翌年である建仁元年(1201)、景時の庇護を受けていた越後国の豪族・城長茂(じょうながもち)が幕府に対し、謀反を起こすという事件が起きている(建仁の乱)。城長茂は、上洛し、小山朝政の邸を襲撃、その後、御所に赴き、天皇に幕府追討の宣旨(天皇の命令を伝える文書)の発給を要請。拒否されると吉野山に潜伏し、最終的には御家人に討たれる(その後、城氏の一族が越後で挙兵し、幕軍に追討される)。城長茂の動きを見ていると、景時も上洛を果たしていたならば、このような動きをしていたのではと思わせる。しかし、最終的には幕軍に討たれたであろう。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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