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「頼朝体制維持」を目指した「13人の合議制」の内実

頼家から親裁を取り上げたのは政子

[用語解説]
侍所=幕府の軍事・警察、御家人を統括/別当=長官/所司=副官
公文所=一般政務・財務を統括、建久2年から政所に名称変更
家子=ここでは頼朝の寝所を警護する側近
寄人=職員 
問注所=訴訟・裁判を統括/政所令=ここでは別当に次ぐ地位

 正治元年(1199)正月13日に源頼朝が53歳で没し、頼朝から後継者に指名されていた長男・頼家(よりいえ)が18歳の若さで第2代鎌倉殿に就任した。「鎌倉殿」とは、頼朝が築いた日本最初の本格的武家政権・鎌倉幕府の首長の呼称である。

 

 ちなみに鎌倉幕府は鎌倉時代には、その支配領域から関東(当時は今のほぼ東本州を指した)と呼ばれ、また、「御家人」とは鎌倉殿の直属の家臣のことである。

 

 頼家の正式な第2代鎌倉殿への就任は、幕府からの請願で正月26日に京都で「頼朝の跡を継ぎ、頼朝の家臣だった者たちを指揮して、頼朝の時代と同じく日本国の守護をおこなえ」という土御門(つちみかど)天皇の宣旨(せんじ/天皇の命令書)が発給され、それが届いた鎌倉で2月6日、頼家の政所(まんどころ/幕府の行財政機関)の開設式(吉書始/きっしょはじめ)が挙行された時ということになる。

 

 頼家は意欲的に政務を開始した。ところが4月12日、わずか2カ月ほどで彼の親裁(しんさい)は停止され、代わって結成された13人の有力御家人の合議組織が「十三人合議制」である。

 

「十三人合議制」は頼家の親裁を止めたのではなく、頼家に訴訟を取り次ぐ者が13人に限定されたのだとする学説もあるが、合議制の成立を記す鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』(吉川本)には、頼家の直接の「聴断(ちょうだん)」が止められたとあり、この「聴断」は「訴訟を裁許する」「政務を執る」の意味なので、頼家は親裁を停止させられたのである。

 

 では、この決定は誰によってなされたのか。鎌倉殿である頼家以外で、このような決定を行うことができるのは、頼家の母であり、偉大なる頼朝の後家(寡婦)である北条政子(43歳)しかいない。

 

 よって、頼家の親裁停止と合議制の成立は、政子の意思という形でなされたはずである。

 

 次に、詳しくは後述するが、13人の構成メンバーについて述べておく。

 

 ここで確認すべきは、メンバーは頼朝に重用されていた者ばかりだということである。

 

 メンバー構成については、いろいろな解釈がある。まず、北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)だけが父子である点が重視されることが多いが、時政は頼朝の義父、義時は頼朝の義弟にして親衛隊長たる「家子(いえのこ)専一(せんいつ)」であり、各々に選出理由がある。

 

 それに他に2組が、父子ではないが一族でふたりを出している。藤原(中原/なかはらの)親能(ふじわらのちかよし)と大江広元(おおえのひろもと)が養子関係の兄弟、三浦義澄(よしずみ)と和田義盛(よしもり)は叔父・甥。だが、親能は朝廷と幕府との橋渡し役である京都守護、広元は政所別当(長官)で、三浦氏も、義澄は幕府所在地・相模の最大の豪族で守護(国ごとに置かれた御家人のまとめ役)、義盛は侍所(さむらいどころ/軍事・警察機関)所司(しょし/副官)である。各人に選出理由があり、北条氏だけを特別視する必要はない。

 

 文士(ぶんし)(文官・文筆官僚)の多さもよく注目される。武士9人・文士4人だが、御家人の中で文士は武士とは比較にならないほど少数なので、文士の比率は極めて高い。また、足立遠元(あだちとおもと)は武士だが、頼朝時代に政所寄人(よりゅうど/職員)を務めており、武士と文士双方の性格を有していた。遠元を入れれば、文士は5人で3割を超える。実務能力の高い文士は頼朝時代から幕府運営に必須の存在であったから、当然の結果でもある。

 

 そして最も大きな特徴は、頼朝の乳母(めのと)・比企尼(ひきのあま)の縁者が、北条父子(義時の妻は比企尼の孫娘)を含めて4人いること。だが、幹部に比企尼の縁者が多いのも頼朝時代からである。

 

 結局、「十三人合議制」とは頼朝時代の現状維持なのである。

 

 政子や御家人たちは若い頼家の政治能力に不安を抱き、頼家が成長するまでの期間を、合議制によって乗り越えようとしたと考えられる。

 

 だが、頼家は「十三人合議制」に激しく反発する。さらに、13人を含めた有力御家人同士の対立から、激烈な内部抗争の時代に突入するのである。

 

監修・文/細川重男

『歴史人』2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」より)

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