義経の最期と奥州合戦
頼朝の私怨で討たれた源義経と藤原泰衡(ふじわらのやすひら)

鎌倉勢奥州進発之図
源頼朝の奥州追討軍を描いた浮世絵。頼朝の動員命令は遠く南九州までに及び、「吾妻鏡」によると全国から約28万人を集めたと伝わる。行軍中にもかつて敵対した佐竹氏などが参陣。追討軍の数はふくれ上がった。歌川国芳/都立中央図書館特別文庫室蔵
鎌倉永福寺を修理せよ、宝治2年(1248)2月、執権北条時頼(ときより)はそう霊夢(れいむ)の告げを受けた。永福寺(現・廃寺)は、文治5年(1189)に義経を討ち、奥州藤原泰衡を征伐した後、頼朝の「私の宿意(しゅくい)(野望)」により滅ぼされた両人の怨霊を宥(なだ)めるために建立したと『吾妻鏡(あづまかがみ)』は説明する。これが義経誅殺と奥州合戦についての鎌倉方の認識であり、そのため両人没後60年を期して、大規模な修理がなされることとなった。義経・泰衡は頼朝の私怨によって亡ぼされ、その怨霊に時頼すら恐怖した。頼朝の暴虐の罪深さと、鎌倉の人びとの心に刻み込まれた罪悪感の程が知られよう。
文治元年(1185)10月17日深夜、六条堀河の義経邸が襲撃される。これを猜疑心(さいぎしん)の強い頼朝が義経を危ぶみ、刺客土佐坊昌俊(とさのぼうしゅんしん)を送り込んだ暗殺未遂事件とするのは真実ではない。襲撃以前に義経は挙兵し、頼朝追討の宣旨発給もほぼ固まっていた。こうした状況に対応しての義経への先制攻撃であって、暗殺未遂により義経が挙兵したわけではない。
もちろん造反の背景には頼朝との対立がある。しかし頼朝が義経を敵視し、下向しても鎌倉入りを許さず腰越(こしごえ)に留め、義経は申し開きも叶わず対決を宣言した……という腰越状的理解は是正が必要である。
実際のところ、義経が去る5月に捕虜平宗盛(むねもり)らを護送して東下した際には、鎌倉で頼朝と対面し「ごくろうさん」と言葉をかけられたようである(『延慶本平家物語』)。この後、両者の関係は悪化し、ついに対決にいたるわけだが、後白河上皇の陰謀や、梶原景時(かげとき)の讒言(ざんげん)、義経の不用意な言動などは本質的な理由ではない。
義経が上皇に奏上した挙兵理由は「没官領として配分されていた二十ヶ所の所領をすべて没収された」からだという。
え、それだけ?と思うかも知れないが実は大きな意味がある。
ここには、義経には独自の所領は持たせないという頼朝の方針が示されている。近世的にいうと「部屋住み」であり当主の支配下におかれ政治活動も限定される。範頼(のりより)がまさにその待遇で、内乱終結後は儀式以外での表だった活動はなくなる。兄・範頼はその待遇を受け入れたが、義経には受け入れられなかった。
義経の挙兵は、頼朝と上皇との内乱の清算をめぐる政治的な対立を利用したもので、頼朝追討の宣旨を獲得することには成功したが、思うように兵は集まらず、一戦も交えぬまま都落ちし、大物浦(だいもつのうら)より鎮西(ちんぜい)を目指すが難破、南都に身を隠した。またもや目まぐるしい官軍・賊軍の入れ替わりである。
義経が奥州藤原秀衡(ひでひら)のもとにあることが発覚するのは、文治3年に入ってからで、秀衡は引き渡しを拒んだ。しかし秀衡が同年10月に没すると状況は動き出す。翌年2月、朝廷でも義経の存在を確認すると、その追討命令が2月、10月、12月と立て続けに発せられ、秀衡を後継した泰衡はこの圧力に耐えかね、ついに文治5年閏4月、義経を平泉の衣川(ころもがわ)館に討ち、首を鎌倉に差し出した。
しかし、これで一件落着とはならない。頼朝は同年2月、泰衡を義経と同罪として追討の宣旨を下すよう朝廷に奏上するとともに、早くも全国の家人らへ奥州出陣の命令を発していた。義経の処分にかかわらず、すでに奥州進攻の意志は決していたのである。
かくして義経を討ったことで、泰衡追討の理由は失われたとする朝廷側の制止を振り切り、7月、三軍に手分けした大軍が、奥州平泉へむけ進軍する。
郎党である藤原泰衡を討つのに朝廷の許可は不要だそうだが、ならば最初から追討の宣旨(せんじ)など要求しなければよい。圧倒的な大軍を率いた頼朝は、8月22日、主人を失った平泉へ入る。そこはすでに焼け野原で、唯一焼け残った蔵の中には金銀の財宝が遺されていた。頼朝はそれを部下達に分け与えた。それは寺院の荘厳(そうごん)に使用するので掠奪ではないという。その説明に誰が納得するのだろう、北条時頼すら納得していないのに。
監修・文/菱沼一憲