なぜ壇ノ浦の戦いで平家は滅亡したのか?
水手梶取(かこかじとり)射殺、潮の流れ… 平家の敗因は諸説存在する

源平双方の艘数は史料によって著しく異なり、実数は把握できない。だが、この時期の源氏が大規模の水軍を編成していたのは事実だろう。
元暦2年(1185)2月、範頼は筑前芦屋の戦いに勝利し九州を制圧。続いて義経は阿波国府を制圧し、讃岐へ進んで平家の拠点屋島を急襲して西へと追い立てた。ここに平宗盛が屋島を城郭とし、弟知盛(とももり)が彦島(ひこしま)に陣取り門司関(もじのせき)を固めるという平家の瀬戸内海支配体制は崩壊する。壇ノ浦の戦いは3月24日であるが、屋島の戦い後、義経は急くことなく1カ月ほど時間を費やし、平家を西へと押し込めつつ水軍編成を進める。
源氏水軍は、梶原景時が率いた部隊に加え、屋島の戦い以後に参じた紀伊の熊野別当湛増(たんぞう)・伊予の河野水軍が中心となった。湛増は平家方だったが、神意を問うため、田辺今熊野社の神前で鶏合(とりあわせ)の占いをし、源氏に転じたとされる。しかし、義経の肩入れで、湛増が九州進出をうかがっていると範頼が頼朝に訴えていることからすると、義経から湛増へ味方するように、強い働きかけがあったと考えられる。
河野にしても、民部大夫成良(しげよし)と戦闘状態にあり、成良勢力を駆逐した義経に参じることは順当だろう。
平家物語では、範頼・義経軍が合流したように描くがそれは誤りで、壇ノ浦の戦いは義経が独自に編成した水軍による攻撃であり、熊野・河野・周防の船所(ふなしょ)五郎正利、さらには民部大夫成良の嫡子教能(のりよし)までも誘引するなど、旧平家方をも含めた西国の海上勢力を広く集(つど)って強力な水軍を準備していった。この勝つためには手段を選ばない如才(じょさい)なさは、範頼とは比較にならない。
義経軍は、3月に入ってから本格的に再始動し、讃岐塩飽諸島(しわくしょとう)へ進み、同22日に周防大島で三浦義澄と合流する。義澄は範頼軍に属し、鎌倉との連絡のため周防に留め置かれていた。その義澄に義経は合戦の先駆けの名誉を与える。これにより範頼に手柄を譲ることにもなりかねないが、おいてきぼりにされ、自分の戦功の場が失われたと嘆いていた義澄への配慮だろう。義経の人心掌握術の妙がうかがわれる。
合戦の開始は24日午前と考えられる。壇ノ浦の海上に両軍が対峙し、矢合わせと同時に激しい合戦が繰り広げられる。平家軍はさすがに船いくさに慣れた西国武士であり、部隊を山鹿秀遠(やまがひでとお)軍・民部大夫成良軍・本軍・四国軍の4軍に分け、二重三重の船団を組んで集中射撃を行うなど巧みな戦術で序盤は源氏を圧倒する。しかし民部大夫成良が裏切り、四国軍もこれに続くと劣勢に転じ、平家方の水手梶取の多くが射殺され、斬り殺されて操船の術も失われていった。運命を悟った二位の尼時子(ときこ)は、孫の安徳天皇とともに千尋(ちひろ)の海へと没し、一門の多くも入水し平家は滅亡する。
平家の敗因について、「たぎって落ちる潮」が初めは平家有利に、やがて潮が転じて源氏が有利となったという潮流説、義経が非戦闘員の水手梶取を狙い撃ちしたという奇策説、民部大夫成良が嫡子を人質にとられて平家を裏切ったためとする裏切り説など、様々に説明されている。
潮流の変化は操船に影響しただろうし、防備の乏しい水手梶取が流れ矢で損なわれる可能性は高い。あるいは成良が最後まで裏切らずに戦っていたら平家は勝利したのであろうか。つまりこうした諸説は、敗因の要素として考えられようが、本質的な理由にはなり得ないだろう。
つまりは元暦2年正月の九州陥落から、翌月の屋島陥落を経て、壇ノ浦の合戦へと平家が追い詰められた結果である。九州・四国の拠点を奪われた平家は、食料・武器の供給に窮し、船いくさでの利点を生かして序盤は戦えたが、早々に矢を射尽くし、やがて射かけられるままとなり、圧倒されていった。まさしく「運命尽きぬれば」である。
監修・文/菱沼一憲