壇ノ浦の陰で繰り広げられた頼朝の謀略とは?
西国で戦闘が展開する一方、頼朝は着々と独裁を進める

源義経
福原で勢力を盛り返しつつあった平家だが、義経が戦線に加わると状況が一変する。周到な軍略の前に一ノ谷が落ちると、連戦連敗を重ねることになる。『前賢故実』国立国会図書館蔵
富士川の戦いで平家軍を追い返し、北へ転じて常陸佐竹氏を討った頼朝は鎌倉へ帰還、ここに関東の軍事制圧は一応達成された。同12月、頼朝の新造御所が完成し、その移徙(いし)の儀が大々的に挙行される。300人もの御家人が大規模に造営された侍所(さむらいどころ)に参上し、侍所別当(べっとう)・和田義盛(よしもり)がその着到(ちゃくとう/点呼)を付した。
武家政権、鎌倉殿の誕生である。天武天皇が壬申(じんしん)の乱を制して飛鳥に王権を打ち立てたように、頼朝は関東を統一し、辺鄙(へんび)な田舎に輝かしい武家の都を創り上げた。『吾妻鏡(あずまかがみ)』はそのように頼朝を讃える。しかし雇われマダムのような状況が変化したわけではない。頼朝の戦いはここから本格化する。外には平家・木曾義仲・後白河上皇、内には絶対的権力者への道のりである。
義仲は平家を追い落とし頼朝に先んじて上洛を果たす。晴れて官軍となった義仲であったが、京都では無骨で無教養な振る舞いが嘲笑され、皇位継承に口出しして後白河上皇から不興をこうむる。自慢の武力も水島の戦いで平家に敗北するなどはかばかしくない。上皇は早々に義仲を見限り、頼朝の取り込みを画策する。寿永2年10月、東国における頼朝の軍事行動を朝敵平家追討と正当化し、さらに宣旨(せんじ)を発給して東海・東山道の戦時統治を委ねた。
この間、上皇に平家追討を遂行せよと出京させられていた義仲は、裏切られたことを知り激怒して帰京する。政略では上皇が一枚上手のようだ。西からは平家が、東からは頼朝が迫るなか、平家との和平は決裂。上皇を連れて北陸へ逃れる算段も、頼朝軍の電撃上洛作戦に阻まれる。近江へ逃れたところで、追撃してきた義経配下の石田為久(ためひさ)に討たれた。
源範頼(のりより)・義経を大将軍とする頼朝軍は、引き続き旧都福原(ふくはら)の平家に襲いかかる。元暦元年(1184)2月7日、東の生田口(いくたぐち)へは大手範頼軍、西の一ノ谷口には搦手(からめて)義経軍が殺到した。早朝から開始された攻撃はわずか2時間ほどで終了する。短時間で終わったこと、東西から挟撃していることから、もとより兵力差は歴然であったのだろう。この後、範頼は鎌倉へ帰還、義経は京都に留まり、頼朝腹心の土肥実平(どひさねひら)・梶原景時(かじわらかげとき)を伴って在京代官の職務を担う。
頼朝は同年8月、改めて鎌倉より範頼を大将軍とした追討軍を西国に下す。範頼軍は長駆(ちょうく)の行軍に疲弊しながらも、翌年正月には豊後に渡海し、筑前芦屋の戦いで平家勢力を駆逐し当座の目的を達成した。残るは瀬戸内海と四国のみとなり、同年2月に義経が阿波に渡海。阿波国府と讃岐屋島を陥落させ平家を西に逐(お)う。さらに紀伊熊野・伊予河野(こうの)氏ら西国の水軍勢力を味方にし、3月には平家を壇ノ浦に沈めた。
頼朝の外の戦いは連戦連勝ではあったが、その華やかな場面に頼朝の姿はない。この間、頼朝は幕府内の戦いに力を注いでいた。まず挙兵成功の一番の功労者である上総広常を、寿永2年末、朝廷に背く無礼者として殺害。元暦元年6月には甲斐武田氏の一条忠頼(いちじょうただより)も謀反の疑いありとして暗殺した。ともに頼朝の御所内で暗殺されている。頼朝は戦時の緊張状態を利用して対抗勢力を排除し、独裁権力を創り上げていった。
この陰湿な謀略で躍動したのが頼朝の側近たちである。頼朝は結城朝光(ゆうきともみつ)・梶原景季(かじわらかげすえ)・和田義茂(よしもち)など若手有力家人を一本釣りし、隔心なき面々として寝所近くに伺候(しこう)させていた。北条義時もそのひとりである。頼朝は彼らを手足として利用しつつ、自己の藩屛(はんぺい)となるよう有力御家人として育成していった。義経が外での戦いを終えて久しぶりに帰還した時には、その藩屛はほぼ完成し、すでに義経の居場所は失われていた。
監修・文/菱沼一憲
(『歴史人』2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」より)