後継の座をめぐる北条時政と義時の思惑
説得術を学んだであろう義時が鎌倉殿の御家人として認められる

武田信義
武田氏の初代当主・新羅三郎義光の曽孫で、甲斐源氏4代当主。甲斐国を制圧した後、石橋山の戦いで敗れた頼朝配下の武将たちを軍に加えて富士川の戦いに参戦した。国立国会図書館蔵
治承4年(1180)9月15日、北条時政は、甲斐国の武田信義(のぶよし)・一条忠頼らに源頼朝からの伝言を伝えた(『吾妻鏡』)。頼朝に加勢するようにとの説得を時政は行っていたのだろう。時政の子・北条義時は、父に同行していたとはいえ、わずか17歳。まだ説得工作を担っていたとは考えにくい。父の尽力を間近で見る機会はあったかもしれないが。
10月13日、時政と義時は、甲斐源氏とともに駿河国に赴いたというから、説得は無事に成功したのだ。しかし、駿河国の目代・橘遠茂(たちばなとおしげ)が彼らを襲撃するとの知らせがあったため、武田信義・一条忠頼・安田義定(よしさだ)らは迎撃しようと進軍。翌日、鉢田(はちだ。山梨・静岡の県境)の辺りで、駿河目代の軍勢と合戦となる(鉢田合戦)。山の狭い一本道に、駿河目代の大軍は思うように動けず、甲斐源氏方が勝利する。橘遠茂は生け捕られるが、すぐに首を斬られ、晒された。時政・義時父子がこの戦いにどのような貢献をしたかは不明である。
一方、頼朝は千葉常胤(つねたね)・上総広常ら武士団を糾合し、勢力をつけた上で、10月6日には源氏にゆかりのある鎌倉に入っていた。そして同月16日には、平家の軍勢を迎え撃つため、鎌倉を立ち、駿河国に向かうのである。
18日に駿河国の黄瀬川宿に着いた頼朝は、甲斐や信濃の源氏を味方につけて駆けつけて来た時政と対面する(『吾妻鏡』)。
この直後に起こった富士川の戦いに頼朝軍は勝利し、以後、関東を中心に勢力を拡大させる。同年12月12日、頼朝は相模国鎌倉の大倉郷に造営した御所に入る。
続いて侍所にて、311名の武士の名を記帳する「着到の儀」が行われた。その中には、当然、時政や義時の姿もあった。彼らは鎌倉殿(頼朝)を主君とする御家人となったのである。
さて、時政の嫡男・宗時は石橋山の戦いにて戦死した。よって時政の後継者は次男の義時にスムーズに決まったのかといえばそうではない。
北条本家から出され江間姓へ時房を後継に考えた時政と…

千葉常胤
上総広常の又従兄弟で、一族300騎を率いて下総国府あるいは上総国府に逃れていた頼朝に参陣を表明。後の一ノ谷の戦いや、奥州藤原氏討伐の戦いにも参戦して功をあげた。
国立国会図書館蔵
義時は治承4年(1180)12月から翌年4月の間までに、江間の地を頼朝から与えられた(これは、時政が頼朝に願ったものと思われる)。同地の豪族・江間次郎は平家方の伊東祐親に味方し、討たれていた。そこを義時が賜(たまわ)ったのである。義時は江間小四郎義時と名乗ることになる。
『吾妻鏡』は、義時のことを「江間小四郎」「江間殿」と多く記し、北条の苗字で記すことは少数であった。これは、義時が北条本家から出されたことを意味する。時政は、義時を自身の後継者に考えていなかった可能性もある。
では、誰を後継者と考えていたのか。北条政範(まさのり)という説もある。政範は、時政の後妻・牧の方が生んでいる。義時の異母弟ということだ。
政範は、元久元年(1204)、16歳で亡くなってしまうのだが、その時には既に「従五位下」の位階に達していた。義時は41歳でやっと同等の位となっている。破格の待遇から、政範が時政の後継者だとする説があるのだが、残念ながら、宗時戦死時(1180)には政範はまだ生まれていない(政範は1189年生まれ)。
もうひとりの義時の異母弟に北条時房(ときふさ)がいる。時房は安元元年(1175)の生まれであり、その元服の儀式(1189)は有力御家人や頼朝までが参列した盛大なものであった。よって、時政は時房を後継者に考えていた可能性が高い。
義時はその事をどのように感じていたか。「いつかは自分が後継に」と執念を持っていたのか、「成るようにしか成らぬ」と諦観していたか、それは定かではない。
監修・文/濱田浩一郎