平家軍が篠原の戦いで大敗を喫した理由
敗因は兵粮の現地調達という杜撰(ずさん)で無計画な進軍

倶利伽羅峠平家本陣跡
倶利伽羅峠にある猿ヶ馬場に合戦碑が立つ。平家本陣があったとされる場所である。越中と加賀の国境にあたる要衝だった。
平家政権は支柱であった平清盛・高倉上皇を失い、源頼朝・木曾義仲といった反乱勢力に東海・東山・北陸道を奪われた。反乱は豊後の緒方惟栄(これよし)、土佐の源希義(まれよし)、紀伊熊野の湛増など全国に波及し、さらには大飢饉という天災も降りかかる。ここで平家政権が打ち出した起死回生の一手が北陸道への大規模派兵である。若狭から越後にかけての反乱勢力を駆逐し北陸道を奪還する。これにより北陸道からの年貢米の納入を確保し、京都の都市機能を回復させることが作戦の主眼であった。
都合10万もの大軍は平維盛を大将軍とし、寿永2年(1183)4月17日~23日にかけて次々と京都を出陣していった。「まづ木曾冠者(かじゃ)義仲を追討し、その後、兵衛佐(ひょうえのすけ/頼朝)を討ん」(『平家物語』)という反撃の始まりであり、敗北の不安など微塵もなかった。27日には越前に入って源氏方のふたつの城を攻略し、5月上旬には越中国境に迫る。恐らくこの頃には、篠原か加賀国府付近に布陣して越中への進撃を準備していたのだろう。
ところが5月16日、京都へ衝撃的な情報が伝えられた。「去る11日、官軍の先鋒が勝ちに乗じて越中へ入ろうとしたところ、木曾義仲・源行家(ゆきいえ)の迎撃により敗北し過半が死んだ」(『玉葉』)という。これは越中への入り口での衝突であるから、いわゆる倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いであろう。
さらに衝撃は続く。6月1日の合戦で大敗し、官軍4万余騎もの軍勢は、わずか4~5騎ほどとなり、その他は半傷半死となり甲冑を脱ぎ捨て山林へ逃れ入り、大将軍維盛はじめ、平家一の勇士平盛俊(もりとし)・景家(かげいえ)もほうほうの体(てい)で敗走したという。追討に従軍した兵士の妻子は、「悲泣無極」という目を覆うありさまである。この6月1日の合戦は、倶利伽羅峠の戦いの後であるので、いわゆる篠原の戦いということになろう。
勝ちに乗じて越中へ乗り込もうという大軍は、なぜもこれほど脆かったのだろう。侍大将として従軍していた平家の郎党盛俊・景家・忠経(ただつね)と大将軍維盛らの主導権争いが敗北の要因ともいうが、それだけではなかろう。火牛(かぎゅう)の計(けい)などという奇襲攻撃であろうはずもない。そもそも倶利伽羅峠の戦いは、前述のように先鋒の衝突に過ぎない。本戦は4万の軍勢が瓦解した篠原の戦いである。
『平家物語』の北陸道追討軍の出陣記事に注目してみよう。追討軍は「かた道」を賜ったそうで、片道を給わるとは、追討軍が通過する近江・越前・加賀・能登・越中から自由に兵粮(ひょうろう)を取って良いという勅許(ちょっきょ)である。
これにより近江への入り口逢坂(おうさか)の関から、掠奪をしながら進軍したので、「人民はこらへずして山野にみな逃散」したとされる。つまり兵粮は現地調達だった。実際、追討軍は充分な兵粮が準備できておらず、出陣直前の4月中旬、京中の畠を荒らしたり、人馬雑物に目を懸けては奪い取るといった狼藉に及んでいる。
さらにこうした違法行為があっても、平家の棟梁・宗盛(むねもり)は黙認するという無責任さである(『玉葉』)。充分な兵粮を用意せず、現地調達で10万の兵を動員した作戦の無謀さ、無計画さは明白である。その結果、少数精鋭の義仲軍に越中国境で足止めされると、たちまち兵粮に窮し、兵力は自ずと消耗、10万の兵は4万となり、統制もままならず義仲軍に蹂躙(じゅうりん)された。自滅といってよいだろう。
この後、平家は京都を死守しようとするが、一戦も交えずに都落ちし、それ以降もはかばかしい勝利には恵まれずに壇ノ浦での滅亡を迎える。実質的に平家の滅亡を決定づけたのは、この倶利伽羅峠・篠原の戦いであったと言っても過言ではない。
監修・文/菱沼一憲