一ノ谷の戦いにおける多田行綱の活躍
勝利の立役者は義経ではなく多田行綱(ただゆきつな)

一ノ谷の戦いの地として知られる須磨浦公園(兵庫県神戸市須磨区)には、「戦の濱」と刻まれた石碑が立つ。「戦の濱」は当時、一ノ谷の激戦ぶりから名付けられた呼称。
寿永2年(1183)6月の篠原の戦いで大敗した平家軍は、同7月に都落ちする。政権交代を成し遂げた義仲も、平家追討の停滞、後白河上皇との対立など悪手が重なり、翌元暦元年正月、源頼朝の弟範頼・義経を大将軍とする上洛軍に近江粟津(あわつ)で討たれた。こうした源氏方の混乱に乗じて、平家は勢力を盛り返し福原に布陣していた。
政権を確保した源氏軍の次なる課題は、復活しつつある平家との対決であった。朝廷では平家との和平も模索されたが、後白河上皇の強い意志もあり、追討の方針が確認され、寿永3年2月1日、源氏軍は大手範頼軍が山陽道を南下し生田口を、搦手義経軍は丹波道を西に進み一ノ谷口を目指し出陣した。
平家が一ノ谷に構えた城郭について『平家物語』では、東の木戸口を生田、西の木戸口を一ノ谷とし、堀・逆茂木(さかもぎ)・乱杭(らんぐい)を設け、櫓(やぐら)を構えた強固なものとする。ただし現実には、一ノ谷と生田は東西に10㎞以上も離れており、とてもひとつの城郭とはいえない。東西の両木戸により山陽道を遮断し、その中央に位置する福原・大輪田泊(おおわだのとまり)を防御するための備えであろう。
『平家物語』では、一ノ谷に安徳天皇の御所があり、そこに義経の逆落としが仕掛けられ、この奇襲攻撃により勝利したかのように描くが、これは合戦をより劇的に描くためのフィクションである。
上皇への範頼・義経らの報告によると、合戦は7日朝より開始され、わずか2時間ほどで勝敗は決した。多田行綱が山方から攻め寄せて、真っ先に山手を陥落させ、平家の城郭を完全に制圧した。
ただし、大輪田泊に停泊していた40~50艘に乗船したままの人々がおり、彼らは出港することができずに自ら火を放って自害した。その中には平家の棟梁宗盛もいたと思われ、また三種の神器の安否も不明だという。神器の安否が不明であるという説明は、暗に安徳天皇が亡くなったことへの言及である。もちろん、これは誤報で天皇も宗盛も無事に脱出している。リアルな情報だからこその誤りといえよう。
平家の陣を東西から挟撃し、停泊中の船ごと2時間で壊滅させた現実の一ノ谷の戦いからすると、まず源平両軍の兵力には、大きな差があったと考えざるを得ない。もし兵力が拮抗しているならば、兵力を二分して強固な城郭に突入させるような作戦自体、無謀である。また挟撃して退路を断ち、短時間で決着をつけたのは、平家の殲滅を目的とした攻撃だったからであろう。だからこそ、上皇への報告では、宗盛と天皇の死に言及しているのである。
この現実の一ノ谷の戦いにおいて際立った活躍をみせたのが、「山方」より「山手」の守備を突破した多田行綱である。この山方・山手はおそらく、福原の北側、つまり鵯越(ひよどりごえ)の道を通じて平地へ抜けた辺りで、平家はこの本陣背後の守備を突破される。
源氏の平家殲滅作戦において、行綱の功績は絶大といえよう。しかし行綱自体は、あまり評判の良い人物ではない。鹿ヶ谷(ししがたに)の変において平家打倒の大将と期待されながら、平清盛に恐怖して密告するなど、変わり身の早い狡猾な人物とみなされている。平家の都落ちの際には、平家を裏切って摂津・河内でゲリラ戦を展開するなど功績があったにもかかわらず、いつしか源頼朝から「奇怪な人物」と勘当され没落する。
しかし摂津多田院を所領とし、地の利があったこともあろうが、平家軍の弱点である「山手」を突破して致命傷を負わせたことは、行綱の才覚のなせるところであった。
監修・文/菱沼一憲