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「鎌倉殿」の誕生と統治機構の樹立

鎌倉幕府の基盤は頼朝と御家人の主従関係

頼朝の政治理念が記された書状
京都の公家・藤原兼光(かねみつ)に宛てた書状。たとえ後白河法皇の命令であれ、天下の政道に照らし合わせ不当のものであれば、これに従わないと記されている。東京国立博物館蔵 出典/ColBase

 治承4年(1180)8月、源頼朝(みなもとのよりとも)は平家に対し、挙兵する。頼朝は長く流人という立場であったため、彼に仕える武士が側に大勢いたわけではなかった。山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)や波多野義常(はたのよしつね)などは、源氏に近い武士(源氏累代の家人)ではあったが、挙兵への加勢要請を蹴り、悪態までついたという(『吾妻鏡』)。

 

 石橋山での敗戦により危機に陥ることもあったが、頼朝は武家の棟梁としての器量を示し、関東の武士たちを帰服させていく。 

 

 同年10月、鎌倉に入った頼朝は、以降「鎌倉殿」として、東国に武家政権を築いていくことになる。頼朝(軍)は当初、一介の謀反人・反乱軍に過ぎなかったので、内乱に勝利していくには、周りの武士たちを従えていく以外になかった。幕府の最初の機関として設けられたのは、御家人を統制する侍所(さむらいどころ)であった(1180年11月)。そのことからも、幕府が、鎌倉殿と御家人との主従関係により成り立っていることが分かろう。

 

 頼朝は敵対者を殲滅(せんめつ)していき、その所領を御家人に分与することで、主従関係を強めていった(御恩と奉公)。頼朝が侍所の次に設置したのが、公文所(くもんじょ)(後に政所/まんどころ と改称)である。元暦元年(1184)に設置された政所は、幕府の財政機関であり、鎌倉殿が支配権を持つ荘園の経営や、御家人に対する地頭職などの安堵、諸国の土地台帳(大田文/おおたぶみ)の作成・保管を担当した。

 

 元暦元年には問注所(もんちゅうじょ)と呼ばれる裁判機関が設置されている。当初は頼朝の邸宅の一部が問注所に充てられていた。地方支配の要として、軍事・警察業務を担うのは、国ごとに置かれた守護(前身は惣追捕使/そうついぶし)であった。惣追捕使は、武士の動員や兵糧米の徴発を行い、平家の追討にも従事する。一時停止されたこともあったが、逃亡する源義経(よしつね)の探索を理由に再度設置され、名称も守護に統一されることになる。

 

 文治元年(1185)には地頭が設置される。頼朝に歯向かう源義経、行家(ゆきいえ)を探索するために必要だという理由で、頼朝が朝廷に迫り、設置されたのが地頭である。地頭は、諸国の荘園や公領で治安・警察任務や年貢の徴収・管理など様々な役割を担った(年貢の収益の一部を取得した)。

 

 しかし、文治元年の段階で設置された地頭は、荘や郷単位ではなく、一国単位だったと言われている。ちなみに、幕府の経済基盤は、関東御領(ごりょう)(将軍家の直轄領)と御家人の所領であった。平家滅亡の際、朝廷に没収された平家一門の所領は全国で500余ヶ所に及んだというが、それは頼朝に与えられることになる。鎌倉時代における最大の荘園領主は幕府であったという見解もあるほどだ。御家人の所領には、将軍御所や寺社造営、朝廷への経済援助などが課された。御家人の所領も、幕府の運営を支えていたのである。

 

 様々な機関や職制を創設していく幕府ではあったが、それも朝廷があったればこそと言えないこともない。幕府は当初、鎌倉殿(頼朝)を主宰者とする地方の私的政権であった。それが、朝廷から寿永2年10月宣旨(1183)を下されたことで東国支配権を公認され、文治元年には守護・地頭の設置・任免を許可されることによって、支配権の正統性を確保していくのである。政所の開設も、頼朝が公卿に列する立場を朝廷から与えられたからだ。建久元年(1190)に上洛した頼朝は、貴族の九条兼実(くじょうかねざね)に自らを「朝(朝廷)の大将軍」と称した(兼実の日記『玉葉』より)。そしてその翌年、海陸の盗賊は頼朝と朝廷の諸官司に追討させるとの新制が朝廷から発令された。

 

 これにより、頼朝やその配下の御家人が国家的な軍事・警察機能を分掌することになる。頼朝の行動を「古代的な貴族政権を否定する」ものとの見解もかつてはあったが、これは誤りと言えよう。当初、鎌倉幕府は朝廷を前提とした地方政権であったのである。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」より)

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