初期鎌倉幕府の軍事機関を司った「和田氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑫
4月17日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第15回「足固めの儀式」では、いよいよ反頼朝派による計画が実行に移された。源頼朝(大泉洋)が謀反の代償に御家人たちに求めたものは、衝撃的なものだった。
頼朝の非情な覚悟が御家人たちに示される

神奈川県鎌倉市に建つ和田塚。鎌倉幕府に謀反を起こした一族が埋葬された場所とされている。また、謀反に参加した戦死者も埋められたと考えられており、付近から数百体の白骨も発見されている。
木曽義仲(青木崇高)討伐に出陣した鎌倉軍の大将・源義経(菅田将暉)は、迫る合戦に身を震わせていた。一方の義仲は、院御所に火を放ち、後白河法皇(西田敏行)を捕らえ、法皇を盾に戦を優位に進めようと画策する。
両軍の激突が間近に迫るなか、鎌倉では反頼朝派の御家人たちが頼朝排除の計画を練っていた。頼朝の暗殺も浮上したが、上総介広常(佐藤浩市)の反対で却下。話し合いの結果、頼朝の嫡男である万寿(藤原響)を連れ去り、頼朝を鎌倉から追放する計画に落ち着いた。
そんななか、反頼朝派の会合に参加していた梶原景時(中村獅童)が、頼朝側と見破られて捕縛。反乱の拠点となっていた三浦館に様子を見に行った比企能員(佐藤二朗)は、謀反の兆候を察知したものの、恫喝されて御所への報告を怠った。
謀反決行の当日。和田義盛(横田栄司)は万寿を拉致すべく鶴岡八幡宮に向かった。ところが、頼朝を排除した後に盟主と仰ぐつもりだった源義高(市川染五郎)が頼朝側に立つ様子を見て動揺。さらに、北条義時(小栗旬)の説得と畠山重忠(中川大志)の機転により、義盛はあっさりと矛を収めた。こうして、謀反は大事に至らぬまま鎮圧。大江広元(栗原英雄)の目論見通り、反頼朝派に送り込んでいた広常が要所で手綱を引いていたことが、企ての失敗につながった。
頼朝と義時ら側近は、謀反の後処理について話し合う。寛大な処置を願う義時に対し、謀反に一切の咎めがないのは問題だ、と広元が異論を唱えた。広元は見せしめに誰か一人に罪を負わせるべきだと主張する。頼朝と広元の一致した人選は、広常だった。
広元に依頼されて広常を反頼朝派に送り込んだのは義時だ。すでにこの時、広常の処刑が決まっていたことが分かり、義時は頼朝の恐るべき謀略に驚愕する。義時は反対を主張するが、いくら声を挙げても頼朝には届かない。
こうして、謀反を起こした御家人たちの目の前で広常は斬られた。足元に転がる広常の遺体を前に、頼朝は高らかに宣言する。
「今こそ天下草創の時。わしに逆らう者は何人も許さぬ。肝に銘じよ!」
義時を含む御家人は、頭を垂れるほかなかった。
ちょうどその頃、義時の妻である八重(新垣結衣)が出産。後の北条泰時である。我が子を抱く義時の表情に、笑顔はなかった。
宗家とのねじれ現象が後々まで確執を呼ぶ
「和田氏」が所領としたのは、三浦郡和田郷(現在の神奈川県三浦市)。この地名が和田姓の由来といわれている。地名からも分かるように、この地方を代々治めていたのは三浦氏だ。
和田義盛の父・杉本義宗は杉本城(神奈川県鎌倉市)の城主を務めていた。義宗は三浦氏の当主である義明の嫡男。つまり、義盛は三浦氏の嫡流だったということになる。
三浦氏が本拠としていたのは衣笠城(神奈川県横須賀市)だが、義宗は三浦氏の所領内での要衝の地として選んだ場所に、杉本城を築城したらしい。
1163(長寛元)年、義宗は安房国(現在の千葉県南部)への進出を図って、金山城(千葉県鴨川市)の長狭常伴(ながさつねとも)と激突。ところが戦時中に受けた矢傷がもとで命を落とした。戦から撤退後、100日経たずしての落命だったという(『平家物語』)。なお、長狭常伴は、ドラマでは第7回で頼朝暗殺のために大庭景親が差し向けた刺客として登場している。
嫡男を失った義明は、次男の義澄に家督を継承することを決意。1180(治承4)年の頼朝挙兵の際に衣笠城を攻め落とされて義明が討死すると、三浦氏の当主は義澄となった。
こうした経緯で「三浦氏」の継承権を失った義盛は、和田郷を拠点として「和田氏」を名乗ることとなった。どうやら、父の死とともに杉本城を離れ、和田郷に和田城(神奈川県三浦市)を築城したらしい。
ドラマにも描かれている通り、義盛は挙兵時からずっと頼朝に付き従ってきた御家人で、その功績により侍所別当という役職に抜擢された。一説によれば、義盛は早くからこうした職務に就くことを要望していたといわれている。
侍所というのは、御家人の統制や鎌倉の警護を担当する役職。別当は長官に当たる。つまり、義盛は鎌倉政権下における軍事機関の初代長官に就任した、ということになる。
御家人を統率するという意味においては、義盛は宗家に当たる三浦義澄をも指揮下に置くことになる。この複雑な上下関係のもたらすしがらみが、後々に両家をがんじがらめにしていく。
後に義盛は幕府に反乱を起こすが、一族の子孫は越後に逃れて存続し、越後和田氏として命脈を保っている。
なお、義盛も三浦義澄と同じく、ドラマのタイトルである『鎌倉殿の13人』のうちの1人である。