不遇の源氏を支援し続けた忠節の一族「比企氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑩
4月3日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第13回「幼なじみの絆」では、源頼朝(大泉洋)の醜聞を契機に、家人たちが不満を募らせる様子が描かれた。頼朝への忠義が揺らぎ始める家人たちを横目に、新たに頼朝側近となった比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)が、不穏な動きを見せるようになる。
平家との激突前の鎌倉に分裂の危機が迫る

神奈川県鎌倉市にある比企能員の邸址。碑には、幕府に反乱を起こしたために比企一族は滅亡したと書かれている。しかし、能員の妻や幼子だった比企能本は助命され、安房国(現在の千葉県南部)へ配流処分となっている。
周囲の反対を押しのけ、坂東の御家人の中心であった北条時政(坂東彌十郎)が頼朝への不満を理由に鎌倉を去った。
混乱のさなか、頼朝の叔父である源行家(ゆきいえ/杉本哲太)が鎌倉を訪れ、平氏との戦の功労として所領を求めてきた。無謀な戦いに弟の義円(成河)を巻き込み、死に追い込んだことを詫びようともしない。そんな行家に呆れた頼朝は、所領どころか、二度と鎌倉に足を踏み入れないように、と決別を宣言。行家は捨て台詞に、同じ源氏である木曽義仲(きそよしなか/青木崇高)に与することを告げた。
いとこに当たる義仲の動向は頼朝も意識している。平家討伐の手柄を先に奪われてはたまらない。さらに、平家と通じた義仲が鎌倉を攻めるのでは、との真偽不明の噂もあった。
義仲の所領である信濃国(現在の長野県)に軍勢を送ることも案として出たが、坂東の御家人たちから猛反発を受けた。平家との戦いならいざしらず、源氏の内輪もめで出陣することはない、というのだ。仕方なく頼朝は、北条義時(小栗旬)らを使者として、義仲の本意を尋ねることにした。
時政を欠いた坂東の御家人たちは、頼朝に不信を募らせている。それを見計らい、比企能員は北条氏の地位に取って代わることを画策。源氏に接近すべく、源範頼(のりより/迫田孝也)や源義経(菅田将暉)に一族の娘たちを引き合わせた。
そんななか、義時は義仲の陣を訪問。義仲は頼朝と敵対する気はなく、平家と通じているという噂もきっぱりと否定した。要求された人質にも、嫡男の義高(市川染五郎)を差し出すという。思いがけない対応に、義時は胸をなでおろすと同時に、義仲の人格に感嘆する。
その頃、頼朝の正室・北条政子(小池栄子)は、頼朝の愛妾(あいしょう)である亀(江口のりこ)と対面していた。亀は身を引くという。その代わり、御台所としてふさわしい教養を身につけなさい、と忠告した。
信濃から戻った義時は、土産を持参して江間の館にいる八重(新垣結衣)のもとへ立ち寄る。父や兄、息子を亡くし、頼朝の寵愛すら失って笑顔を忘れていた八重だったが、幼い頃から想いを寄せていたという義時のまっすぐな言葉に、心を動かされた。八重は義時に温かな笑顔を見せる。義時は、涙に崩れた。
二代にわたって源氏の幼少期を支える
比企氏は武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)を本領とする一族。比企氏が歴史の表舞台に登場するのは、ドラマに出てくる比企能員からである。
とはいえ、能員も、比企氏も、不明な部分が多い。
能員の生年も、両親が誰かも不明。彼がどのような幼少期を送ったのかも一切分からない。
能員が源氏方についたのは比企尼の存在が大きい。比企尼は能員から見ておばに当たるといわれている。ドラマにも描かれている通り、比企尼は源頼朝の乳母を務めた人物。その縁が、比企氏と源氏とを強く結びつけている。
では、なぜ比企尼が頼朝の乳母に選ばれたのか。これはおそらく、比企氏やその親族が頼朝の父である源義朝の家人であったから、と想像するしかない。
1159(平治元)年に義朝が平治の乱に敗北して殺されると、頼朝は平家によって捕縛された。当時、13歳だったという。翌年に頼朝は伊豆に追放。この時、頼朝を見送った数少ない源氏方の一人が、比企尼だったという。
それからまもなくして、比企尼は頼朝の後を追うように夫の比企掃部允(ひきかもんのじょう)とともに武蔵国比企郡に移住。以降、比企尼は熱心に頼朝への仕送りを続けた。その間に、比企掃部允が病死したために出家している。比企尼の頼朝への援助は、実に20年におよんだ(『吾妻鏡』)。
比企尼と比企掃部允の間には、3人の娘の存在が確認されている。
長女は歌人として一定の名を残した人だったようだ。京都で二条天皇に仕えていた頃、惟宗広言(これむねのひろこと)という歌人との間に一子をもうけている。この子は島津氏の始祖となった島津忠久とされる。後に関東に下り、頼朝の側近の一人である安達盛長(あだちもりなが)と結婚した。
二女が結婚したのは河越重頼(かわごえしげより)。重頼は、石橋山の戦いの後、畠山重忠(はたけやましげただ)とともに平氏から源氏に鞍替えした武士。二人の間に生まれた娘は源義経の妻になっている。
三女は義時らの祖父である伊東祐親の次男・伊東祐清に嫁した。祐清が死んだ後、義朝の代から源氏に仕えている平賀義信(ひらがよしのぶ)と再婚している。
比企尼は3人の娘のそれぞれの婿にも、頼朝を援助するよう命じていた、といわれている。
挙兵した頼朝が比企尼を鎌倉に呼び寄せたのも、これまでの恩に報いるためである。この時に頼朝は比企尼に屋敷を与えている。ドラマの中で北条政子が比企氏の館で出産した場面が描かれているが、それがこの屋敷である。
比企尼は、甥の能員を養子にして比企氏の当主とし、頼朝に推挙した。こうして能員は頼朝の側近の一人となり、歴史の表舞台に立つことになったのである。
なお、比企尼には比企朝宗(ともむね)という実子もいたらしい。朝宗は、比企尼が関東に下向する際に、一族の京都の足がかりとして京に留め置かれた、とされている。
朝宗は奥州藤原氏追討に従軍したなどの記録が残るが、なぜ比企尼が実子の朝宗に家督を継がせなかったのかは分からない。朝宗の生没年も不明だが、一説によると、朝宗がすでに高齢で子もなかったから、ということのようだ。
比企尼の3人の娘のうち、二女と三女は頼朝の嫡男である頼家の乳母を務めたといわれている。つまり比企氏は、二代にわたって源氏の乳母を務めたということになる。
平治の乱で没落の憂き目に遭っていた源氏、すなわち頼朝にとって、迷うことなく自身を援助し続けてくれた比企尼がかけがえのない存在だったことは間違いない。その信頼が、嫡男の乳母に比企氏を指名したことにつながっている。
このような状況に危機感を募らせたのが、北条氏だ。頼朝政権において絶対的な地位を占めていた北条氏にとって、頼朝や頼家との距離が近すぎる比企氏は、政権運営上、目障りな存在と映ってもおかしくはない。さらに比企氏は、後に頼家の舅にもなる。両氏の間に不協和音が生じるのは、北条氏と同格として権勢を振るえる立場にまで比企氏が上り詰めたからだ。今回のドラマに描かれた能員の動きは、その前哨戦といったところだろう。
なお、能員は、ドラマのタイトルである『鎌倉殿の13人』のうちの1人である。