頼朝と北条氏を結びつけた「伊東氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑦
3月13日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第10回「根拠なき自信」では、平家打倒をいったん諦め、鎌倉に戻った源頼朝が坂東平定に乗り出す姿が描かれた。平清盛を一日も早く討ち果たすため、頼朝は、義経をはじめとした弟たちと志を新たにして、戦場へ向かった。
坂東支配の足固めに着手する

静岡県伊東市の物見塚公園に建つ、伊東祐親の銅像。かつて祐親の館のあった場所で、同公園内には櫓を組んで見張りをしていたと伝わる物見の松などもある。
平家による追討軍敗走の知らせが届いた福原では、平清盛(松平健)と後白河法皇(西田敏行)が会見を行っていた。清盛は、今後は直々に頼朝(大泉洋)追討の采配を振るうという。これに対し、法皇は祈祷という形で支援すると応じた。法皇は、さっそく僧侶の文覚(市川猿之助)を呼び寄せる。そして、「人を呪い殺すことはできるか」と文覚に尋ねた。
一方、鎌倉では、坂東支配の中心となっていた平家方の大庭景親(國村隼)が処刑されようとしていた。捕縛された景親は死の直前、手を下す上総広常(佐藤浩市)に「あの時、頼朝を殺しておけばと、お前もそう思う時が来るかもしれんの」との言葉を残して斬首された。
もう一方の坂東における平家方の大物である伊東祐親(浅野和之)は、三浦氏の館で牢につながれていた。祐親は、祐清(竹財輝之助)と八重(新垣結衣)と、親子3人での対面を果たしたが、八重が前夫である頼朝の住まう仮御所で侍女として働いていることを知って嘆く。
そんななか、鎌倉には続々と人が集まってくる。北条時政(坂東彌十郎)の妻であるりく(宮沢りえ)の兄・牧宗親(山崎一)、頼朝の弟である源範頼(のりより/迫田孝也)、武蔵国(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域)の豪族・足立遠元(とおもと/大野泰広)など。いずれも頼朝の坂東支配や平家討伐のために駆けつけた者たちだ。
頼朝は、源義経(菅田将暉)、阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)、範頼ら、弟たちが自身のもとへやってきたことをことのほか喜んだ。坂東武者たちを信じ切ることがどうしてもできなかったからだ。兄弟は、源氏再興のため一刻も早く清盛を討ち果たすことを改めて誓い合った。
しかし、ひとまず頼朝が着手すべきは坂東の平定。その第一歩となるのが、常陸国(現在の茨城県のほぼ全域)の佐竹征伐だった。
広常と義時は、頼朝の命に従い、金砂山(かなさやま)に籠城する佐竹義政(平田広明)のもとへ交渉に訪れた。合戦を避け、短期の決着を企図したものだった。ところが、義政の挑発にまんまと乗せられた広常は、突如、義政を切り捨ててしまう。こうして突発的に合戦が始まったが、金砂山に築かれた砦の堅牢な守りの前に、頼朝軍は攻めあぐねる。
義時に攻略法を尋ねられた義経は、正面から総攻撃を仕掛けて敵の目を引きつけている間に、背後の岩場をよじ登って攻めかける、という奇策を主張する。誰も思いつかなかった見事な作戦、と頼朝が乗りかかった瞬間、時政が陣中に飛び込んでくる。広常が敵方を内通させて砦の守りを解かせたという。見事な初陣を飾るはずの合戦が拍子抜けで終わった義経は、意気消沈した。
そんななか、頼朝の4番目の弟である義円(ぎえん/成河)が鎌倉の仮御所を訪れる。頼朝が義円を迎える様子を、離れた場所から義経が眺めていた。
北条氏との縁が深かった「伊東氏」
伊東氏が本拠としたのは、伊豆国田方郡伊東荘(現在の静岡県伊東市)。一族がこの地に移住したことから「伊東氏」を名乗ることになるわけだが、そもそものルーツは、奈良時代の政治家である藤原不比等(ふじわらのふひと)まで遡る。
藤原不比等はいわゆる「大化の改新」に貢献した藤原(中臣)鎌足の次男。不比等には武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂という4兄弟がいた。彼らはそれぞれ政治の世界で活躍する。長男の武智麻呂は、藤原南家の祖とされる。邸宅が藤原宮の南方にあったため、南家あるいは南卿と呼ばれたという。そこから、武智麻呂の子孫たちも藤原南家を称することとなった。
武智麻呂の四男(三男とする説もある)である乙麻呂の子孫・藤原為憲(ためのり)は、940(天慶3)年の平将門の乱に際し、追討軍として参加。この時に戦功を立てた恩賞として駿河国(現在の静岡県中部、北東部)・伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の国司となった。国司とは、中央から派遣される行政官のこと。これを受け、為憲は以降、「工藤氏」を名乗った。これは藤原氏の「藤」と、拝命した官職である木工助の「工」を組み合わせたものといわれている。木工助は、宮廷の造営や材木の手配を担当した木工寮の長官を補佐する役割を担う役職だった。
工藤氏の子孫たちは、やがて駿河国、伊豆国、遠江国(現在の静岡県西部)、相模国(北東部を除く現在の神奈川県)に移り住む。伊東氏はこのうちの一つ。伊豆国に押領使として着任した藤原維職(これもと)が伊東荘を本拠としたことから、「伊東氏」を名乗るようになったらしい。
維職の孫(あるいは子とする説もある)にあたる家継(祐隆とも)の二人の子のうち、祐継(すけつぐ)が工藤氏を継承し、もう一人の祐家が伊東氏を継いでいる。祐家の子どもが、ドラマに出てくる祐親である。
しかし、祐家が早くに亡くなると、家継は工藤氏を継承した祐継に伊東荘を与え、祐親には河津荘を与えた。祐親は「河津祐親」を名乗らされた上に、父の所領である伊東荘を奪われた格好となる。祐親はその不満を度々家継に訴えたが、聞き入れられることはなかった。
そこで祐親は、伊東荘の新たな領主となった祐継が死ぬや否や、領地を奪還することを計画。河津荘を子に譲った上で、祐継の子である祐経(すけつね)が所領を不在にしている隙に強引に奪い取った。こうして再び、祐親は「伊東祐親」を名乗った。
これに端を発して、同族間の激しい抗争が勃発。1176(安元2)年には、祐親の子である祐泰が殺されるなど、泥沼の様相を呈していた。
そんな祐親と、鎌倉政権の中心になっている北条氏との関係は深い。劇中にも度々「爺様」とのセリフが出てくることからも分かる通り、北条時政と祐親の娘との間に生まれた子どもが、北条宗時、政子、義時、実衣の兄弟である。なお、政子や実衣の実母は不詳とされることもある。
1175(安元元)年頃、監視下にあった頼朝が、祐親の娘である八重と通じ、あろうことか一子をもうけた。京都の警備で不在にしていた間に起こったこととはいえ、祐親にとって驚天動地の出来事である。清盛から厚い信頼を受けていた祐親は、この不祥事を隠蔽するため、頼朝と八重との間に生まれた千鶴丸の殺害を命令。さらには頼朝の暗殺に乗り出した。
そんな頼朝の危機を救ったのが、祐親の次男である祐清(すけきよ)だった。暗殺計画を事前に頼朝に明かしたのである。祐清がこうした行動に走ったのは、自身の妻が頼朝の乳母である比企尼の三女であることと無関係ではあるまい。
祐清の忠告を受けた頼朝は、北条氏の邸宅に逃げ込んだ。逃亡先に北条氏のもとを勧めたのも祐清だったといわれている。以降の頼朝の監視役は、伊東家から北条家に移っている。
後のことを考えれば、頼朝と北条氏を結びつけるきっかけとなったのが伊東氏、さらにいえば、伊東祐親だったと見ることができる。
頼朝の挙兵後、一族が続々と源氏に付き従うなか、伊東氏が源氏と敵対する姿勢を貫いたのはドラマでも描かれた通りだ。
鎌倉幕府開幕後の伊東氏は、祐親の孫が伊東領を安堵されて存続。明治時代には子爵を授けられている。
なお、祐親と争った同族の祐経の一族も後の世まで続いている。祐経の子である祐時もやがて伊東氏を名乗るようになり、日向国(現在の宮崎県)でその地位を確立した。日向国の伊東氏は、戦国時代には島津氏などと覇を争う九州を代表する一大名となっている。こちらも明治維新の後、子爵を授けられた。