武家を束ねる‟棟梁″の地位を確立した「源氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑧
3月20日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第11回「許されざる嘘」では、ついに鎌倉に独自政権が誕生する。その中心にいる源頼朝(大泉洋)は「鎌倉殿」と称され、北条義時(小栗旬)ら御家人を従える体制が整えられた。一方、中央では長年権力者として君臨した平清盛(松平健)が病死。政治は再び後白河法皇(西田敏行)の手に戻され、本格的な源平の争いが迫ってきていた。
鎌倉政権を担う「鎌倉殿」が誕生

京都府京都市にある六孫王神社。清和源氏の祖である源経基の邸宅のあった場所とされ、嫡男の満仲が経基の霊廟を建てたことをきっかけに創建されたという。
義時と夫婦になる話が八重(新垣結衣)のもとに持ち込まれた。しかし、八重は義時の面前できっぱりと縁談を断る。昔からの想い人に拒絶された義時は、悲しみを忘れるため、これまで以上に仕事に打ち込む。
完成した鎌倉の御所に入った頼朝は、これまでの功績に応じて家人たちの論功行賞にあたった。これをもって、関東における独自政権が誕生したことになる。以後、頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれることとなった。
そんななか、頼朝の弟である源義経(菅田将暉)は、平家討伐に出陣する日をじりじりと待ち焦がれていた。ところが、配下の坂東武者たちはいまだに関東を離れたがらない。さらに、義経は兄弟の一人である義円(ぎえん/成河)の存在をうとましく感じていた。文武に秀でた義円の才覚は、頼朝も一目置く。鼻持ちならない義経は、ますます苛立ちを募らせていた。
1181(治承5)年閏2月4日。平清盛(松平健)が病没する。遺言は「頼朝を殺せ」だった。専制的に権力を振るう清盛を苦々しく感じていた後白河法皇は「天罰じゃ!」と歓喜した。
自身の手で清盛の首を取ることができなかったことを嘆く頼朝だったが、平家一族の殲滅こそ、必ず実現させてみせると改めて誓うのだった。
同じ年の冬、頼朝の正室である北条政子(小池栄子)が懐妊した。跡継ぎとなる男子を熱望する頼朝に対し、弟の阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)は「親が徳を積めば望みの子が生まれる」と進言する。そこで義時は、先の戦で捕らえた者たちの罪を許すことを勧めた。
こうして、捕縛されていた、義時らの祖父である伊東祐親(浅野和之)の恩赦が決まった。それを伝えに向かった義時は、頼朝への憎悪を剥き出しにしていた祐親の表情が穏やかになっていることに安堵する。
ところが、全成は、頼朝と八重との間に生まれ、祐親の命によって殺された千鶴丸が成仏しなければ、男子が生まれることはない、と頼朝に告げる。祐親が生きている限り、千鶴丸が成仏することはないという。
それからまもなくして、祐親と祐清(竹財輝之助)父子が遺体で発見された。頼朝の家人になったばかりの梶原景時(中村獅童)によれば、自害だったという。あまりに不自然な出来事に納得のいかない義時は頼朝を問い詰める。しかし、頼朝はあくまで関与を否定した。
その頃、再び政子の胎内の子を占った全成は、祐親が死してもなお、千鶴丸が成仏できていないことを知る。まだ、千鶴丸を殺めた人間が生きながらえているということになる。
千鶴丸を直接手にかけたのは、かつて祐親の下で働いていた善児(梶原善)だった。善児は、頼朝に密かに命じられた景時の求めに応じて、伊東父子殺害も担っている。景時は、自らの配下に善児を雇い入れることにした。
内輪揉めで著しく衰退した「源氏」
皇族が臣下の籍に下る際に賜る姓を皇族賜姓(こうぞくしせい)という。「源」は第56代清和天皇の第6皇子である貞純(さだずみ)親王の子・経基(つねもと)が賜った姓。他にも嵯峨天皇、文徳天皇、宇多天皇などの皇子が賜った源姓もあるが、ここでは省略する。
源経基は武蔵国(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域、神奈川県の北東部)に国司として赴任。平将門の謀反を通報した功績で従五位下に叙されている。
経基の子である満仲(みつなか)は、969(安和2)年に起こった安和の変で陰謀を告発したとして正五位下に叙された。これを契機に、満仲は藤原兼家ら摂関家との結びつきを強めている。滞在は京都を中心としていたが、同時に摂津国多田(現在の兵庫県川西市)を拠点として地位を確立していった。
満仲の地盤を継承したのが、長男である頼光(よりみつ)だ。頼光は摂津源氏の祖となる。次男の頼親は大和国(現在の奈良県)で勢力を固め、大和源氏の祖となっている。三男の頼信は国守を務めた河内国(現在の大阪府東部)で河内源氏の祖となった。
劇中で「源氏の嫡流」という言葉が出てくるが、この流れでいえば清和源氏の嫡流とは頼光系ということになる。
鎌倉にて初の武家政権を確立することになる頼朝の系統は、頼光系の摂津源氏ではなく、実は河内源氏である。
河内源氏の祖である頼信は、1031(長元4)年に勃発した平忠常(たいらのただつね)の乱を鎮圧するという武功を立てた。これをきっかけに源氏の地盤は近畿だけでなく、東国にもおよぶようになった。
その子である頼義(よりよし)、孫の義家(よしいえ)も、それぞれ前九年の役、後三年の役の平定に尽力。この3代にわたっての活躍により、「源氏」は東国武士の間でカリスマ的な信望を集めることとなった。右大臣藤原宗忠の日記である『中右記』には、義家を「天下第一武勇之士也」などと評する記述がある。
源氏が東国武士たちから武家の棟梁と目されるようになったのはこの頃のこととされるが、近年では異論も唱えられている。というのも、義家の率いた軍勢の中心は東国武士ではなかったようで、義家と東国武士との間にそこまで強い関係性が生まれたのかどうかは今後の研究が待たれるところだ。
いずれにせよ、義家以降の源氏は、後継者争いなど一族内の内紛や、平治の乱での敗北などで徐々に弱体化。武家としての地位が陰りを見せ始め、代わりに台頭し始めたのが、平忠盛・清盛父子の平氏であった。
源氏が内部分裂を繰り返している間に、平氏は一族で結束して行動していたため、この差が生まれたようだ。
凋落の続く源氏の再興を果たしたのが、源頼朝である。頼朝は鎌倉に武家政権を打ち立てたが、頼朝を初代とする源氏将軍は3代で終焉を迎える。
なお、義家の弟である義光からは武田氏、佐竹氏などの系統が生まれている。義家の子である義国からは、新田氏や足利氏が生まれた。新田氏と足利氏の系統は、後に鎌倉幕府を倒すことになるわけだが、このうち、足利尊氏は室町幕府を開いたことで知られる。
他の「源氏」には公卿が多いのに対し、清和源氏の最も大きな特徴として挙げられるのは、武家であることだ。
武家の棟梁としての「源氏」の地位の確立は、いずれも幕府を開いた、源頼朝と足利尊氏という2人の存在が大きい。後の世には徳川氏も自らの出自を「清和源氏の一流である」と称しており、武家の間で「源氏」という名の威光が広く浸透していたことがうかがえる。