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文人貴族として学問や行政で手腕を発揮した「大江氏」

北条氏を巡る「氏族」たち⑨


3月27日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第12回「亀の前事件」では、源頼朝(大泉洋)が囲っていた妾(めかけ)の存在が正室・北条政子(小池栄子)の知るところとなった。北条義時(小栗旬)ら北条家は、これを機に大きく揺れ動く。


 

愛妾(あいしょう)・亀の存在によって北条家が大きく揺れる

神奈川県鎌倉市にある大江広元のものと伝わる墓(右)。広元の四男である毛利季光の墓も並んで建っている。季光は毛利氏の始祖で、安芸国(現在の広島県西部)で勢力を誇った戦国大名の毛利元就は季光の子孫にあたる。

 伊東祐親(いとうすけちか/浅野和之)と祐清(竹財輝之助)が不可解な死を遂げた。北条義時は祐親の娘である八重(新垣結衣)に二人の死を報告するが、義時同様、八重も不審を抱く。

 

 頼朝の正室・北条政子の出産が間近に迫るにつれ、鎌倉の御所もにわかに慌ただしくなる。頼朝の弟の阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)と義時の妹の実衣(みい/宮澤エマ)との婚儀が整うほか、三善康信(みよしのぶやす/小林隆)から推挙のあった大江広元(おおえのひろもと/栗原英雄)ら京都の文官たちも頼朝傘下に加わった。生まれてくる子どもの乳母に任命された比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)も、比企尼(ひきのあま/草笛光子)とともに御所を訪れていた。

 

 政子は比企氏の館で無事に出産。生まれたのは、頼朝が熱望していた男子だった。後に二代将軍となる源頼家である。

 

 一方、頼朝は隠れ家として建てた館に義時を招いた。隠れ家とは表向きで、実は妾である亀(江口のりこ)のための館であることに、義時は驚きを隠せない。

 

 そんなある日、ひょんなことから頼朝が妾を囲っていることが政子の耳に届く。政子は激怒して、義時に女の氏素性を尋ねる。政子のあまりの剣幕に居場所まで含めてしゃべってしまった義時は、不測の事態に備えて亀を安全な場所に移すことにした。

 

 政子の義母であるりく(宮沢りえ)は、後妻打ち(うわなりうち)を提案する。後妻打ちとは、前妻が後妻の家を打ち壊すという京の習わしのこと。前妻ではないものの、腹の虫のおさまらない政子は義母の提案に従い、亀の館を打ち壊すことを決意した。頼朝に反省を促すためである。

 

 打ち壊しに向かったのは、りくの兄である牧宗親(まきむねちか/山崎一)。義時の要請で館の警護に当たっていた源義経(菅田将暉)は、宗親から初めて事情を聞かされる。心情的に政子に味方したい義経は、館を守るどころか、打ち壊しに協力。さらには火を付けて、館を焼き払った。

 

 焼き討ちされた館を前に、頼朝は戦慄するとともに怒りを露わにする。すぐさま義経と宗親を呼び出し、詮議(せんぎ)の末に処分を下した。義経は謹慎。宗親は髻(もとどり)を切らされた。当時の常識では、髻を切るというのは大変な侮辱を意味する。

 

 兄に対するあまりの仕打ちに、りくは猛然と頼朝に抗議する。そもそもは正妻に対する頼朝の裏切り行為が原因だと一歩も引かない様子に、頼朝はたじろぎながらも「身の程をわきまえよ!」と一喝した。

 

 事の次第をじっと見届けていたのが、義時の父で、りくの夫である北条時政(坂東彌十郎)だ。時政は、頼朝の一喝に声を荒らげて反論。挙げ句にすべてを義時に委ね、伊豆へ帰ると言いだした。呆気に取られた頼朝は、義時に事態の収拾を命じた。

 

 政権内の人間模様をずっと観察していた広元は、頼朝に進言する。

 

「小四郎殿(義時)は決して手放してはなりません。あの者は、鎌倉殿(頼朝)に忠義を尽くします」

 

 さらに続けて広元は、一つ気がかりなことがある、と告げたのだった。

 

武家政権の発展に力を尽くした官僚

 

 大江広元の出自は諸説ある。

 

 諸氏の系図をまとめた『尊卑分脈』によれば、広元の実父は大江維光(これみつ)で、養父は中原広季(なかはらのひろすえ)とする。

 

 江戸時代にまとめられた『続群書類従』によれば、実父は中原広季、養父は大江維光としており、それぞれが正反対の系図を記している。

 

 ドラマの中では「大江広元」となっているが、史実ではこの頃の広元は中原姓を名乗っている。広元は晩年に近い1216(建保4)年に朝廷に改姓を申し出ており、この時に「大江広元」となった。

 

 改姓の理由として広元は、大江維光に「父子の儀」があり、中原広季に「養育の恩」があった、と述べている(『吾妻鏡』)ことから、広元の実父は大江維光、養父は中原広季と語られることが多い。

 

 大江氏のもとをたどると、土師氏(はじうじ)につながる。

 

 土師氏とは、桓武天皇の外祖母の系統。桓武天皇は、790(延暦9)年12月に、即位10年を記念して土師氏に大枝姓を下賜している。そこで、土師氏のうちの一系統が大枝氏を名乗るようになった。

 

 866(貞観8)年に大枝氏は「大枝」を「大江」に改称している。幹より「枝」が「大」であることは、子孫が長く繁栄する由縁にならない、というのが理由だという。

 

 大江氏は代々、文才に恵まれた者を数多く輩出している。それは、漢文学などの研究を職務とする文章博士(もんじょうはかせ)や、皇太子に学問を教える東宮学士(とうぐうがくし)といった役職に任じられる者が多かったことからもうかがえる。

 

 広元の実父とされる大江維光の祖父・大江匡房(まさふさ)も文人貴族として知られた人物であり、その子である大江維順も歌人として名を残した。維光も学者として朝廷に仕えている。広元も、公文書を取り扱うなど行政官僚として朝廷で働いていた。一族はいずれも、学問を中心とした分野で活躍していたのである。

 

 広元がなぜ京都から鎌倉に下向することになったのかについては、詳らかになっていない。頼朝の配下になった時期も明確でないが、1183(寿永2)年頃に頼朝は京都より、何人かの官僚を鎌倉に呼び寄せている。以前より頼朝と知遇のあった三善康信もそのうちの一人だ。

 

 おそらく、広元も同じタイミングで頼朝に仕えることになったのだと考えられている。きっかけは、すでに頼朝の部下として活動していた、兄の中原親能から誘いを受けたから、とするのが一般的だ。

 

 この頃の頼朝が武士のみならず行政職に経験のある者を集めているのは、その後の幕府運営を見据えてのこと。幕政に必要な人材を揃えるためである。実際に広元は行政面、特に朝廷との交渉役などで手腕を発揮している。京都から遠く離れた坂東武者たちでは対応しきれない分野を、広元らが担ったのである。

 

 広元は頼朝の死後も幕政に力を注ぎ、ドラマのタイトルとなっている『鎌倉殿の13人』のうちの1人として、義時とともに武家政権の発展に大きく寄与することとなる。

 

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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