源氏の再興を陰で支えた「安達氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑪
4月10日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第14回「都の義仲」では、京から平家一門が一掃される場面から描かれた。これを契機として、源頼朝(大泉洋)と木曽義仲(青木崇高)という源氏同士の争いが勃発。同時に、頼朝の御家人である北条義時(小栗旬)は、鎌倉に漂う不穏な動きにも目を光らせなければならなくなった。
平家討伐の総大将として源義経が立つ

神奈川県鎌倉市にある安達盛長の邸址。碑が建つのは鎌倉最古の神社といわれる甘縄神明宮の近く。同社は源氏ゆかりの神社とされ、頼朝が盛長に社殿の修復などを命じたのは信頼の高さゆえと見られている
1183(寿永2)年5月、信濃国(現在の長野県)の木曽義仲がついに挙兵。平家の追討軍を倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで撃退し、その勢いのまま京を目指した。
一方、清盛亡き後の平家の当主である平宗盛(むねもり/小泉孝太郎)は、義仲の来襲に対抗することなく、皇位の象徴である三種の神器を持ち出し、安徳天皇をも連れ出して一族もろとも京を落ち延びることを選んだ。
後白河法皇(西田敏行)は、入京した義仲と対面。京から平家を追い出した労をねぎらったが、京のしきたりや作法はおろか、三種の神器すら知らない義仲にいたく失望した。
先を越されたことを悔しがる頼朝だったが、ただでは転ばない。法皇から源氏一門に恩賞が下されることになり、その内容は勲功の第一を頼朝、第二を義仲、第三を源行家(ゆきいえ/杉本哲太)とするものとなった。頼朝は事前の根回しで、大した戦もせずに勲功第一をもぎ取ったのである。
行家らの抗議により恩賞は見送られたが、京で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を繰り返す義仲軍に業を煮やした法皇は、安徳天皇を取り戻すことを諦め、わずか4歳の後鳥羽天皇を即位させた。三種の神器のないままの即位である。法皇は、義仲にすぐさま京を立って平家討伐に出陣し、三種の神器を取り戻すよう命令する。
こうして義仲軍が京を去ったため、頼朝に上洛の好機が舞い降りた。頼朝は上洛の遅れを詫び、莫大な引き出物を送ることで法皇に接近。法皇は返礼として頼朝の流罪を解き、官位を復帰させた。さらに、東海道、東山道の軍事支配権を認めたのである。
東山道に位置する信濃を所領としていた義仲は、この裁定に激怒。戦場から京に舞い戻り、行家の制止も聞かずに院御所へ強引に乗り込んだ。法皇は謁見を拒否。義仲の乱行を謀反と認定し、頼朝に救いを求めたのだった。
これを受け、頼朝はついに出陣を決意。坂東の御家人たちが源氏の身内争いのための出陣を渋るなか、まずは源義経(菅田将暉)を大将とした先発隊を上洛させ、その間に御家人らを説得し、本軍を送ることとなった。
その頃、三浦館には頼朝に不満を募らせる御家人たちが集まっていた。
千葉常胤(ちばつねたね/岡本信人)をはじめ、土肥実平(どひさねひら/阿南健治)、岡崎義実(おかざきよしざね/たかお鷹)らは、三浦義澄(みうらよしずみ/佐藤B作)を説得に訪れたのだった。常胤らは、頼朝を追放した上で、人質として差し出されている義仲の嫡男・源義高(市川染五郎)を盟主とし、坂東を自分たちで治めるつもりだ。あくまで中立の立場を貫きたい義澄は、乗り気ではない。しかし、決死の説得に、北条氏は助けることを条件に企てに加わる、と応じた。
坂東の御家人たちの会合に潜伏していた梶原景時(中村獅童)は、統率力のある者が加わったら、頼朝側に勝ち目はないと分析する。報告を受けた義時ら一同の脳裏に浮かんだのは、まだ反頼朝派に加わっていない、坂東の有力者である上総介広常(かずさのすけひろつね/佐藤浩市)だった。
流人時代から死まで頼朝のそばにあり続けた側近
安達盛長(あだちもりなが)は、源頼朝にとって最古参の家人。頼朝が罪人として伊豆に流された頃から付き従ってきた。
そんな盛長の出自は謎につつまれている。
武蔵国(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域、神奈川県の北東部)の足立郡出身とする説がある一方、盛長のルーツを藤原北家魚名流と伝えるのは、室町時代に成立したとされる系図集『尊卑分脈』だ。
藤原北家とは、奈良時代に活躍した政治家である藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・房前(ふささき)の別称。邸宅が藤原宮の北方にあったため、北家あるいは北卿と呼ばれた。不比等の子である武智麻呂(むちまろ)、房前、宇合(うまかい)、麻呂の4兄弟のうち、最も栄えたといわれる系統で、魚名流は房前の五男である藤原魚名から出た一流。
『尊卑分脈』では、盛長のルーツを魚名の子孫である藤原山蔭としている。山蔭の子孫である小野田兼盛(兼広とする説も)が奥州の安達郡に移り住み、その子である盛長がはじめて「安達氏」を名乗る、といった流れを伝えている。それとは別に、小野田盛長が奥州で勃発した合戦で戦功を立てて安達郡を賜り、そこから「安達氏」を称したとする説もある。
盛長にまつわる諸説のなかには、同じく頼朝の家人となっている足立遠元と同族とするものもある。しかし、この説は信ぴょう性がないとする見方が近年では大勢のようだ。
いずれにせよ、「安達氏」の始祖となったのが盛長であることに変わりはない。
もうひとつ確かなことといえば、盛長の妻が比企尼(ひきのあま)の長女であるということ。比企尼とは頼朝の乳母を務めた人物。どうやらその縁で盛長は頼朝に仕えるようになったらしい。
ただ長く仕えてきただけではない。
盛長の妻は、かつて宮中に仕えていたこともあり、京都に幅広い人脈を持っていた。その人脈から得た京都の動静を、頼朝に逐一伝えていたといわれている。また、北条政子との縁を取り持ち、二人が夫婦となるのに奔走したのが盛長だとする説もある(『曽我物語』)。頼朝にとって盛長が欠かせない人材となったのは、古くから主従関係を結んでいたから、というだけでなく、こうした情報収集能力や高い交渉力など、その才知も大きな理由のひとつのようだ。
事実、頼朝の挙兵後に千葉常胤をはじめとする在地の武士たちを味方に引き入れたのは、盛長の活躍によるところが大きい。今回のドラマでも、出陣に際し、東北の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に不在の虚をつかれる恐れがあることを頼朝に進言している場面が描かれている。
盛長は平家との戦いには一切参加していない。苛烈さを増す源平合戦のさなかに頼朝のそばを片時も離れず、鎌倉で幕府の基盤づくりに従事していたという。戦場に送り込むのではなく、側近として身近に置いていたということは、盛長に対する頼朝の信頼がことのほか厚かった証、と見ることもできるだろう。
頼朝の死後、盛長はいったんは一線を退くも、その高い能力を買われて、ドラマのタイトルである『鎌倉殿の13人』のうちの1人として、幕政に復帰している。
鎌倉の御家人として大いに発展した安達氏は、盛長の死後も幕府の中枢で評定衆や引付衆などを歴任。盛長のひ孫にあたる安達泰盛(あだちやすもり)の頃に最盛期を迎えている。