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尼子方の月山富田城を降伏させた毛利元就の謀略とは?

今月の歴史人 Part4


戦国時代の城攻めの中で、謀略や策略を用いた「調略」はオーソドックスな手段のひとつとして知られている。敵方の内情を踏まえた上で様々な情報を流し、組織の混乱や裏切りを狙うこの手法を、毛利元就は得意としていた。月山富田城を拠点とする尼子方を攻める際に発揮された、その手腕を解説する。


 

敵方の心理を先読みしながら降伏・退去の許可を通知

 

上杉謙信の調略によって落城した七尾城の石垣。その守りは固く、謙信の力攻めをもってしても落とすことはできなかったが、重臣である遊佐続光の調略によってようやく落城が実現した。

「調略(ちょうりゃく)」とは策略(さくりゃく)・謀略(ぼうりゃく)を意味する。敵にニセ情報を流したり工作を仕掛けて疑心暗鬼に陥らせ、内部で対立させ、寝返らせるのが調略だ。この調略を得意としたのが中国地方の覇者・毛利元就(もうりもとなり)で、彼の名言に「謀(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負け」というものがある。

 

 それを体現したのが、第2次月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いだ。永禄8年(1565)、元就は孫の輝元(てるもと)の後見役という立場ながら毛利家の実質的な主として出雲尼子義久(あまごよしひさ)の本拠・月山富田城攻めを開始する。

 

 月山富田城は峻険(しゅんけん)な山城(やまじろ)で、天文12年(1543)には尼子氏が3倍の兵数を擁する大内軍を撃破したほどの難攻不落の要害だった。元就も3万の兵力で城を包囲。4月、1万の尼子軍が籠もる月山富田城に3方向から総攻撃を仕掛けた。

 

 初陣の輝元が御子守口(おこもりぐち)を担当し岩倉(いわくら)というところに敵が出撃してくると、その迎撃を志願して元就を喜ばせたが、大事をとって却下されたとも、副将たちに補佐されて善戦したともいう(『元就軍記』ほか)。

 

 塩谷口(しおだにぐち)を担当する次男の吉川元春(きっかわもとはる)が苦杯を喫し、菅谷口(すがたにぐち)では小早川隆景(こばやかわたかかげ)も厳しい戦いを強いられ、10日経っても埒(らち)は明かない。一旦兵を引いた元就は9月になって再度城を囲んだ。

 

 包囲により補給路を遮断されて兵糧の欠乏に悩む富田城の兵が降伏を希望しても、元就は「降伏も退去も許さぬ」とする高札(こうさつ)を立て、大人数を収容する城内の兵糧が1日も早く底をつく様に仕向け、さらに封鎖を厳重化。ついに兵糧が尽きたと探知すると、今度は一転して「降伏も退去も認める」と告知した。

 

 これは、兵糧切れの目的を達したことで次は城内に「誰が逃げ出すか、誰が裏切るか」という互いの不信感を抱かせようという心理戦だ。このあたり、元就の一手一手は名騎手の手綱さばきのように柔軟でしたたかだった。

 

 必死の覚悟を決めた人間は「敵を1人でも道連れにしよう」と士気を高めるが、逆に「降伏や退去で命が助かるかも知れない」という気持ちが芽生えれば、一気に萎えるものだ。人間心理を知り尽くした元就による揺さぶり。これも調略の一種と言えるだろう。

 

武将が次々と降伏し忠臣も讒言により斬られる

 

 これによって家老の牛尾幸清(うしおよしきよ)・亀井秀綱(かめいひでつな)・佐世清宗(させきよむね)ら尼子方の有力武将が降伏した。牛尾豊前守(ぶぜんのかみ)(幸清の甥と伝わる)などは妻から「侍は渡り者にて候ぞ」と説得されて毛利方に降ったというから、将兵だけでなくその家族もすでに命が大事と戦意を失っていたのだろう(『陰徳記(いんとくき)』)。

 

 退去する者も後を絶たずという状況になると、残った城内の者たちにはさらに深い猜疑心(さいぎしん)が生まれる。疑心暗鬼に陥った中で筆頭家老の宇山久兼(うやまひさかね)が殺されてしまう。籠城戦の中で海から私財を投じて兵糧米を城へ運び入れ、城兵に配付していた久兼だったが、その補給路も断たれた後は、投降しようとする諸手(もろて)の兵たちを押しとどめて自分の配下に属させていた。これが「毛利軍に内通し兵を集めて内側から城を攻めようというのだ」と疑われ、讒言(ざんげん)されて斬られたのだ。

 

 『老翁物語(ろうおうものがたり)』に久兼が元就に調略されて寝返りを考えていたとあり、また元就の家臣・天野隆重(あまのたかししげ)も「久兼に対して他の尼子家重臣たちの土地を与えると元就が約束した」と久兼の子に書き送っているなど、久兼の裏切りを思わせる傍証(ぼうしょう)もあるが、これはおそらく元就がわざと久兼への工作の情報を漏れさせ、義久に久兼を誅殺(ちゅうさつ)させようと試みたものだろう。

 

 かつて元就は、陶晴賢(すえはるかた)との戦いに臨んで江良房栄(えらふさひで)という晴賢の重臣が自分に内通しているという噂を流し、無実の房栄を晴賢の手によって殺させている。

 

 裏の裏をかく元就の調略により完全に分裂し久兼の子・善五郎も義久を見捨てて降伏した月山富田城内。永禄9年(156611月、義久は開城降伏し尼子家は滅亡した。

 

監修・文/橋場日月

『歴史人』5月号「決定!最強の城ランキング」より)

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