近代戦を耐え抜いた「熊本城」の本当の底力とは?
「歴史人」こぼれ話・第23回
西南戦争において、西郷隆盛率いる薩摩士族1万3000に対し、谷干城率いる鎮台兵(政府軍)3500が50日もの籠城に耐えきれたのは何故か? その大きな理由のひとつとして挙げられるのが、熊本城の存在だ。ほぼ垂直に切り立った武者返しの石垣や、城内に掘られた数多くの井戸など、籠城を見据えて城内外に施された機能に迫る。
西南戦争で実証された加藤清正の堅牢な城構え

熊本城・大天守小天守 提供:熊本城総合事務所
熊本城といえば、築城の名手・加藤清正が築いた難攻不落と謳われた名城である。中世に築かれた千葉城や隈本城を改築。慶長5(1600)年に天守を築き、慶長11(1606)年には城の名そのものまで隈本城から熊本城へと改めている。名実共に、熊本城の完成であった。
この城を特徴付けているのは、いうまでもなく最上部が垂直に切り立った武者返しの石垣である。上に行くに従って勾配が急になっていくため、忍者といえども、最後まで登りきることができなかったといわれる。
この城郭としての堅牢さに加えて、実はもう一つ、城の防衛機能を高めるための工夫がなされている。それが、籠城に対する備えであった。例えば、城内に掘られた井戸の多さが挙げられる。何と120カ所もの井戸が掘られたというのだ。しかも、茶臼山の地下水脈を活用したこともあって、いずれの井戸も深くて大きく、水量も豊富であった。長期の籠城でも、水で困ることはなかったはずである。
また、万が一の際に備えて、天守と御殿の畳(3千数百畳)に食用の白芋茎(ずいき)を編み込むという念の入れようであった。さらには、焚き付けに使用するための雑木(榎や椋など)も、数多く植えられている。ただし、よく流布する話として、土壁に干瓢(かんぴょう)を塗り込んだり、食料とするために銀杏の木を植えたといわれることもあるが、これは少々眉唾ものというべきだろう。
ともあれ、この敵を寄せ付けぬ急勾配の石垣と籠城時の備えが功を奏して、実際に攻めよせる敵をはねつけた実例があった。それが、明治10(1877)年に勃発した西南戦争だった。
新政府に不満を抱く西郷隆盛率いる薩摩士族1万3000が、谷干城率いる鎮台兵(政府軍)3500の守る熊本城に攻め寄せてきた、その時に役に立ったのである。天守や本丸が炎に包まれた(戦いの前に発生した謎の火災による)とはいえ、守りを固めた兵たちは、50日もの籠城に耐え、死守することに成功したのである。