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槍の名手・加藤清正は、なぜ一番槍になれなかったのか? 〜加藤肥後守清正 其の二〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第7回

“我こそが一番槍!”と常に血気盛んだった190センチ超え(?)の大男

清正の槍といえば、朝鮮出兵の際の虎退治で有名な「片鎌槍」が、賤ヶ岳合戦では長い槍身をもつ 「大身槍」を使ったとも伝わる。イラスト/さとうただし

 賤ヶ岳合戦は、織田家の後継者を決定する柴田勝家と羽柴秀吉の最終決戦の前哨戦でもあった。勝家が勝てば、織田家家臣団は勝家の号令に従うことになり、秀吉が勝てば、織田家の「果実」はそのまま秀吉に転がり込む。どちらにとっても負けられない合戦であり、その勝敗を決定付ける意味合いがあった。

 

 ところで、加藤清正の若い頃について、合戦での武功などは知られているが、容貌や体格について記した資料はあまりない。だが、いくつかの伝聞などでは、3尺5寸(約120センチ)の刀を脇差しにしていたし、鯨尺(くじらじゃく)で4尺2寸(約130センチ)に仕立てた着物を着ると、裾が脛(すね)の下に来るほどであったというから、ほぼ6尺2寸(約190センチ)はあったろうと思われる。戦国時代としては、かなりの大男であったのだろう。とにかく、風貌からしても恐ろしく強い武将という存在感を示していたに違いない。

 

 言い方を換えれば、この時点で清正の武名は広く轟いており、秀吉から見れば縁者であることも手伝って、合戦においては清正を誰よりも頼りにしていたことになる。

 

 賤ヶ岳合戦では、秀吉の「掛かれ!」という号令より早く飛び出したそうとしていたところ、秀吉から「虎之助、法螺貝を吹け!」と命じられた。仕方なく法螺貝を手にした清正は、心を落ち着けてから一気に吹き鳴らした。その音が遠くに響く。味方の将兵が鬨(とき)の声を挙げる。もういいでしょうか、と言うように秀吉を見てから清正は、槍を取り一気に本陣を飛び出した。この時、清正は23歳。「我こそが一番槍!」と心に秘めていた清正だが、思わぬ法螺貝によって、一番駆けを逃していた。すると正面に、柴田方の武将・拝郷五左衛門が奮戦しているのを見つけた。だが既に福島市松(正則)と脇坂安治が槍で立ち向かっていた。

 

 舌打ちをして「ほかによき敵はおらぬものか」と周囲を見渡したところ、清正の目に飛び込んできたのが拝郷勢の鉄砲隊を指揮する武将であった。鉄砲頭・戸波隼人という。清正は、この戸波を難なく討ち取った。それからも敵勢の中に躍り込んで、縦横無尽に槍を使った。

 

 こうして賤ヶ岳合戦は、秀吉軍の勝利に終わった。秀吉はこの合戦で虎之助(清正)・市松(正則)ら若武者を中心に9人が、勝敗を左右するほど抜群の働きをしたとして、合戦後に感状と3千石を与えた。しかし、正則のみは「より大きな武功を挙げた」として5千石を与えられていた。

 

 清正は、この秀吉の措置・決定に不満を持った。「市松(正則)も俺も御一家であり、殿の馬廻りである。この度の槍働きで俺は市松に劣っていたとは思われない。どうして俺の方が2千石も少ない恩賞なのか」と秀吉の耳に聞こえるように言った。

 

 秀吉はこれを聞き「暫く我慢しろ。そのうちに市松と同じにしてやる」と笑った。そして、約束通りにまもなく2千石を上乗せした。この合戦後に、清正は物頭として鉄砲500挺・与力20人を預けられた。

 

 後に肥後(熊本)半国25万石の領主になり、秀志没後の関ヶ原合戦では家康の東軍に属し、合戦後には肥後全土とその他所領73万石を与えられた。清正は慶長16年(1611)6月、没した。享年50。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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