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徳川家康が高天神城の戦いで「力攻め」を強行した理由

今月の歴史人 Part2


戦国時代において、城攻めには入念な事前準備が必要であり、無理に攻め込めば味方に無駄な犠牲が出てしまうこともあった。そのため多くの場合、「力攻め」を強行することはなかった。しかし、城方の援軍や、自軍の兵糧に不安があるなどの理由で、ある程度の犠牲を覚悟した短期作戦を強行する必要があれば「力攻め」が行われることもあった。今回はそんな「力攻め」の中でも、 政治的な目的で天下人・徳川家康が「力攻め」を実施した例を紹介する。


 

落城後の評判を見据えて強行された「力攻め」

 

力攻めの襲来を阻む「畝堀」 北条氏は畝堀(うねぼり)または障子 堀と呼ばれる巨大な空堀を山中城に築き、豊臣軍の襲来に備えた。近年、 発掘調査が行われたがその後復元工事が行われて元の姿が取り戻された。

 

「孫子の兵法」に、城攻めは最低の作戦だとある。事前の準備(攻城用の兵器の手配、櫓(やぐら)・物見台(ものみだい)などの施設の築造など)に3ヶ月は必要で、 その間に抜け駆けをする将兵が出れば、多大な損害をこうむるかも知れないというのだ。してみると、ただ兵力だけを恃んで城を無理矢理攻撃する「力攻め」は下の下の策ということになる。確かに、城攻めには寝返り工作などを含めた周到な準備の期間が必要だろう。それで敵が戦意を喪失して降伏開城すれば最高だ。

 

 だが、城方の援軍が駆け付けてくることが予想されたり、自軍の兵糧に不安があるなどの理由で、ある程度の犠牲を覚悟した短期作戦を強行する必要が生じれば、「力攻め」を選択することもやむを得ない。中には、政治的な目的のために力攻めをかけざるを得ないケースもあるのだ。

 

 その例のひとつとして「第2次高天神城攻め」を紹介しよう。遠江国の駿河国境に近い要衝・高天神城(たかてんじんじょう)は、天正2年(1574)武田勝頼(たけだかつより)に陥れられて以来、徳川家康にとって何がなんでも奪回しなければならない最重要目標だった。

 

 長篠(ながしの)の戦いで織田信長とともに武田勝頼を破った家康は、諏訪原城(すわはらじょう)、二俣城(ふたまじょう)、犬居城(いぬいじょう)を攻め落とし馬伏塚砦・横須賀城に加え6ヶ所に付城(敵方の城の近くで牽制するための砦)を築き高天神城を完全に包囲する態勢を構築。これに対して城方は岡部元信(おかべもとのぶ)以下1000 程度の兵が守備していたが、天正8年10月、家康は1万以上の大軍を包囲網に配備する。

 

 年が明け天正9年になると、籠城を続ける城方は重包囲による極端な兵糧不足に陥った。この当時、武田勝頼は関東の北条氏と敵対しており、背後に大敵を抱えて高天神城救援に出向く余裕は無い。家康の元には城方から降伏の意志が伝えられた。このままいけば、高天神城は兵を損じる事なく手に入るのは間違いないところだったのだ。

 

 しかし、ここで「政治的な目的」 が発生した。信長から「高天神城の開城降伏は受け入れるな。士卒が損耗するのは気の毒だが、城を無惨に攻め落とせば、援軍に来なかった勝頼の評判は地に墜ち、他の武田方の城はこちらに寝返る」という指示が下ったのだ。

 

 降伏を許されない高天神城の兵は、3月22日夜に突撃を敢行する。これを迎え撃った徳川軍は元信以下約700名近い武士たちを討ち取ると、続いて本多忠勝(ほんだただかつ)・鳥居元忠(とりいもとただ)らが城に攻めかかった。金曲輪を占拠し、続く的場曲輪は戸田康長(とだやすなが)らが強攻して奪取。急崖からも徳川兵が無理攻めに攻め上り、損害を出しながらも城を攻め落とした。

 

監修・文/橋場日月

『歴史人』5月号「決定!最強の城ランキング」より)

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