備中高松城の立地を利用した豊臣秀吉の「水攻め」
今月の歴史人 Part3
戦国時代の城の攻略法の中でも、リスクが高いことで知られる「水攻め」。羽柴(豊臣)秀吉は、その戦法を得意とした武将として知られている。秀吉はどのようなケースで水攻めを実践したのか、備中高松城の場合を例として紹介する。
立地条件を逆手に取って敵城を水没させる

高松城水攻めを描いた『赤松之城水責之図』。毛利氏配下の清水宗治と豊臣秀吉による備中松山城の戦いで、秀吉は水攻めを選択。左に描かれた本陣から、水に沈んだ敵城を眺めた様子を描いている。この後、秀吉は和議を結び中国大返しを行った。都立中央図書館特別文庫室蔵
戦国時代の「水攻め」は2種類が存在した。ひとつ目は城内の水の手(取水口や井戸)を奪うなり、使用不能にするなどするもの。水は炊飯にも使うが、人間は食糧が無くても2週間以上は耐えられるといわれる。だが、飲用水が無ければ4、5日しか命を保つことができない。
武田信玄が遠江国(とおとうみのくに)二俣城(ふたまたじょう)を落とすのに用いた戦法が、城下を流れる天竜川(てんりゅうがわ)に筏(いかだ)を大量に流して川水の取水口を破壊するというものだった。言わば、「水を断つ攻撃」だ。
そして、もうひとつの「水攻め」が、城そのものを大量の水で孤立させるというもの。「水を満たす攻撃」と表現できる。
この戦法を得意としたのが羽柴(豊臣)秀吉で、尾張国(のち美濃国)竹ヶ鼻(たけがはな)城攻め、武蔵国(むさしのくに)忍城(おしじょう)攻め、紀伊国太田城(きいのくにおおたじょう)攻めと何度も繰り返し採用している。中でも有名なのが備中国(びっちゅうのくに)高松城(たかまつじょう)攻めだ。
天正10年(1562)秀吉は中国地方の覇者・毛利氏の前線拠点、備中高松城を3万の軍勢で包囲。城の様子を遠望してじっくりと観察した。平城を数年に渡って改修強化し、そのうえ城の三方は深田で、攻め寄せることができない」と分析すると、足守(あしもり)川・血吸川(ちすいがわ)の二本の河が流れる低湿地に囲まれている地形を逆手にとり「周囲に堅牢な堤を築き、川の水を導く水攻め」を決定した。
彼はまず米6万3500石と銭63万5千貫を用意して周辺の農民たちから土俵(つちだわら)ひとつあたり米1升と銭100文で買い上げ、膨大な数の土俵を集めて、城の南に全長3km(一説に4km・12kmともいう)・高さ8m、底部の幅24m、上部の幅11mという大規模な堤防を完成(『武将感状記』『太閤記(たいこうき)』ほか)させた。堤防によって、足守川を堰(せ)き止めると、梅雨のなか城の大半は湖中に没し、戦闘能力を失ってしまった。
そして毛利家の援軍4万が到着しても、水が邪魔で城を救援できず、ついに6月4日、城将の清水宗治(しみずむねはる)が兵5千の命と引き換えに自害して城は降伏したのだった。
監修・文/橋場日月