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三重県で唯一現存する城郭建造物としてたたずむ「亀山城」【三重県亀山市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第5回


織田信長、武田信玄、上杉謙信──。名だたる武将たちが覇を争った戦国時代。それぞれの武将の基地として堅固さを誇った城々はいまその姿を残すものは数少ない。ただその名残を残し、遺構としてその薫りを感じられる場所がある。かつて名城だった跡形を残す城を紹介していく。


 

■間違えて天守が解体されてしまった⁉ という逸話をもつ城

 

本丸の南に位置する天守台に現存する多門櫓

 

  亀山城は、三重県亀山市に所在する。日本各地に亀山城という名前の城が存在するため、三重県亀山市の亀山城は、旧国名を付して「伊勢亀山城」と呼ばれることも多い。ちなみに、同名の亀山城としては、明智光秀(あけちみつひで)が築いた亀山城が有名である。光秀が築いた亀山城は京都府亀岡市にあり、こちらは丹波亀山城とも呼ばれている。

 

 伊勢の亀山城は、現在のJR亀岡駅の北側に広がる丘陵に築かれていた。地表からの高さは20mほどあり、典型的な平山城であったといえる。ただ、残念ながら、近代以降、城域のほとんどが市役所や小中学校などとなり、なかなか全容を摑むことは難しい。しかしながら、多門櫓といった建造物のほか石垣・水堀などの遺構が残るほか、地形はかつてのままである。想像をたくましくすれば、かつての威容をうかがい知ることは可能だ。

 

二の丸の北側に再建された土塀

 

 かつて伊勢は、平清盛(たいらのきよもり)を輩出した伊勢平氏の本国であった。亀山の地は、伊勢平氏の流れをくむ関氏の支配下におかれ、すでに鎌倉時代には城が築かれていたと伝わる。ただし、そのころの亀山城は、現在地からは少し離れており、亀山古城と呼ばれている。

 

 戦国時代の城主であった関盛信(せきもりのぶ)は、伊勢に侵攻してきた織田信長に降伏し、信長の三男・信孝(のぶたか)に従い、本能寺の変後には豊臣秀吉の家臣となっている。そのため、天正11年(1583)に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いがおこると、亀山城は柴田勝家(しばたかついえ)に与した長島城の滝川一益(たきがわかずます)の謀略で乗ったられたものの、関盛信・一政(かずまさ)父子が秀吉の支援をうけて奪還をはたしている。

 

 翌天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いがおこると、関氏は豊臣秀吉につく。そのため、織田信雄(のぶかつ)の命を受けた神戸正武(かんべまさたけ)率いる500余の軍勢に攻められてしまった。このとき、秀吉の軍勢は、近隣の峯城(みねじょう)などを攻めるために亀山城を離れており、守備は手薄だったらしい。そこを衝かれてしまったわけである。しかし、関氏は寡兵ながらも、城下に火を放ち、その噴煙を利用しながら城から打って出て、織田信雄方の軍勢を撤退に追い込んだという。このあと、関一政は秀吉から戦功を称された。一般的に、小牧・長久手の戦いは、その名から尾張での戦闘が中心であったと思われがちだが、緒戦は伊勢の攻防戦が中心だった。もし、亀山城が織田信雄に奪われていたとしたら、秀吉も苦戦することになっていたにちがいない。

 

 天正18年(1590)の小田原平定後に関氏は陸奥白河へ転封となり、亀山には織田信孝の近臣であった岡本良勝(おかもとよしかつ)が入った。そして、この岡本良勝がそれまでの亀山古城を廃し、新たな亀山城を築く。これが、現在の亀山城である。亀山城は、城主が岡本良勝の時代に、天守と石垣を擁する近世城郭として整備されたらしい。

 

本丸・二の丸の北側には外堀が池として残る

 

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、岡本良勝は西軍についたことにより自刃し、関一政が亀山城主として復帰する。しかし、関氏はその後、伯耆(ほうき)へと転封となり、亀山城には譜代大名が入れ代わり立ち代わり入っている。東海道の要衝を押さえる亀山城は、幕府にとっても重要な城だったためである。事実、本丸には将軍が上洛する際に宿泊する御殿が設けられており、城主は二の丸に御殿を構えていたのだった。

 

 なお、江戸時代の地誌『九々五集』(くくごしゅう)によると江戸時代の初め、丹波亀山城の天守を解体するように命令された堀尾忠晴(ほりおただはる)が誤って伊勢亀山城の天守を解体してしまったという。だが、この逸話は、話としてはおもしろいものの、にわかに信じがたい。なぜなら、同じ名前の城は日本各地に存在しているから、そのような命令が下される場合には、必ず旧国名も付されるからである。誤って解体されたのではなく、老朽化により取り壊されたものであろう。

 

 寛永13年(1636)に入城した本多俊次(ほんだとしつぐ)によって、本丸北側に天守代用の三重櫓が建てられたほか、天守台石垣の上には多門櫓が建てられた。この多門櫓は現存しており、亀山城の象徴となっている。

 

多門櫓の瓦は最後の藩主石川氏の家紋「石川竜胆」

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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