×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

242年にわたり日向の地を治めた伊東氏の居城・都於郡城【宮崎県西都市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第4回


かつて荘厳な姿をしていた城々。その姿はいま埋もれてしまっている名城がたくさんある。ここでは歴史を経て、埋もれてしまった城の魅力を、歴史学者で城の研究を続ける小和田泰経氏に掘り起こしてもらう。


 

■北条義時にもかかわりのあった名家・伊東氏の居城として九州に君臨

 

 都於郡城(とのこおりじょう)は、現在の宮崎県西都市に所在する。この西都市には、300基を超える古墳で知られる西都原(さいとばる)古墳群がある。これらの古墳は、5世紀から7世紀に築造されたものと見られており、古くから繁栄していた地域であったことがわかる。城は、国の特別史跡にも指定されている西都原古墳群から5kmほど南に位置している。

 

 現在、城跡は国史跡として整備されている。樹木なども伐採されていて、遺構の確認も容易なので訪れやすい。

 

 都於郡城は、南北朝時代に足利尊氏(あしかがたかうじ)に従った伊東祐持(いとうすけもち)が築いたとされる。ちなみに、伊東氏は、平安時代に駿河・伊豆国司となった藤原氏の一族が伊豆国田方郡伊東荘に住し、伊東氏を称したものである。治承4年(1180)の石橋山の戦いで源頼朝を攻めた伊東祐親(すけちか)も、その一族である。こののち、伊東祐親は自害に追い込まれるが、祐親の従兄弟にあたる工藤祐経(くどうすけつね)の子・祐時(すけとき)が日向国に地頭職を与えられた。そして、南北朝時代になって、伊東祐時の後裔にあたる祐持が日向国児湯郡都於郡に所領を与えられ、都於郡城を築いたということになる。

 

手前に流れているのが三財川で、正面奥の段丘上に都於郡城は築かれていた。

 

 城は、城の北部から西部へ流れる三財川(さんざいがわ)の段丘上に築かれている。一般的に、地表からの高さが100mを超えると山城と呼ばれることが多い。三財川の段丘は、地表からちょうど100mほどであり、都於郡城も山城に分類される傾向にある。ただ、段丘の平坦地に築かれており、頂上に本丸をおいて二の丸以下を段々に曲輪を配置するような一般的な山城とは違う。

 

二の丸の土塁。曲輪の周囲は土塁で防御されている。

 

 城が築かれている段丘は、シラス台地である。シラス台地とは火山灰などが堆積してできた台地であり、南九州に顕著な地質である。掘削しやすいことから、南九州ではいくつもの曲輪を配置する群郭式と呼ばれる縄張となっている城が少なくない。都於郡城も、シラス台地に築かれた典型的な群郭式の縄張となっており、本丸・二の丸・三の丸・西の城・奥の城という五つの曲輪から構成される。そして、それぞれの曲輪は土塁で囲まれ、さらに、曲輪と曲輪との間は深い堀切が構築されている。

 

幅が広い巨大な堀切で、曲輪を分断している。右側が本丸で左側が二の丸。

 

 伊東氏は、この都於郡城を拠点に勢力を拡大し、俗に「伊東四十八城」と呼ばれる支城網を築き上げ、日向一国の支配に乗り出していく。しかし、それを阻んだのが、薩摩の島津義久(しまづよしひさ)であった。

 

 島津氏は、鎌倉時代の初めに源頼朝から薩摩・大隈・日向3か国の守護に任ぜられていた。その後は、一族の争いから大隅・日向はもちろん、本国の薩摩まで失いかねない状況に陥ってしまう。しかし、戦国時代になると島津貴久(たかひさ)が勢威を回復させ、貴久の子・義久は薩摩・大隅に日向を合わせた三州統一を図るため、日向に進出してきたのである。

 

 こうした島津氏の進出に対し、伊東義祐(いとうよしすけ)は抵抗を続けたものの、元亀3年(1572)の木崎原の戦いで島津氏に大敗してしまう。そして、 天正5年(15771210日、ついに都於郡城を落とされてしまったのである。伊東義祐は一族を引き連れ、姻戚にあたる大友宗麟(おおともそうりん)を頼って豊後に逃れた。

 

 この豊後に逃れた一行のひとりが、伊東マンショである。伊東マンショは、伊東義祐の孫にあたり、こののち大友宗麟の名代として天正遣欧使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)に加わり、ローマに渡った。そのような経緯があるため、現在、都於郡城には、伊東マンショの銅像が建てられている。

 

天正遣欧使節に大友宗麟の名代として派遣された伊東マンショの銅像。

 

 さて、豊後に逃れてきた伊東氏の一族を庇護した大友宗麟は、伊東氏の旧領を回復するという大義名分によって日向へと侵攻していく。ところが、天正6年(1578)の耳川の戦いで大友氏は島津氏に大敗を喫してしまう。これにより、大友氏の勢威は著しく衰退し、伊東氏の旧領回復は絶望的となってしまったのである。

 

 こうしたなか、伊東義祐の子・祐兵(すけたけ)は、上洛して豊臣秀吉を頼ることにした。これにより、伊東祐兵は秀吉による九州攻めの先陣を務めることとなっている。秀吉の軍勢が九州になだれ込むと、島津義久は都於郡城で迎え撃とうとするものの、最終的には豊臣秀吉に降伏した。

 

 秀吉に従った伊東祐兵は、ようやく都於郡城を回復することができた。しかし、こののち、伊東氏が飫肥城(おびじょう)を居城としたことにより、一国一城令で都於郡城は廃城となっている。

 

KEYWORDS:

過去記事

小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

最新号案内

歴史人 2022年12月号

承久の乱のすべてがわかる! 歴史人編集部

いよいよ終盤に突入するNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。  12月号では「承久の乱」を徹底解説。なぜ後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を討つことを決めたのか? また、北条義時はどう動いたのか? そして、この戦いの意義とはなんだったのか? その真実に迫る。また日本の2分したこの戦いの後、100年以上続く鎌倉幕府と北条家はその後どうなったのか? 13人の御家人たちの血脈はどうなったのか?「その後」を追う。  そのほか、北条氏と盟友だった三浦氏が戦った「宝治合戦」、北条家の内紛「二月騒動」、鎌倉最大の危機「蒙古襲来」、そして鎌倉幕府と北条家の終焉までを徹底解説する!