×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

戦国最弱武将の城として9回も落城した伝説の城・小田城【茨城県つくば市】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第3回


戦国時代、強者たちが強敵と戦うため、多くの城が立った。そうした城々は現在、痕跡を残すのみとなっている。しかしながら、痕跡にこそ城の良さは光る。かつては壮大な敷地と巨大な建物を有しながら、歴史を経て、埋もれてしまった城の魅力を、歴史学者で城の研究を続ける小和田泰経氏に掘り起こしてもらう。


 

■上杉氏、佐竹氏、北条氏などさまざまな強者が欲しがった関東の要衝

 

小田城大手口
史跡は国の指定を受けている。近年の発掘調査もあり、かなり整備され、見どころも多い。正面奥にそびえるのが筑波山。

 

 小田城(おだじょう)は、筑波山を仰ぎ見る茨城県つくば市に所在する。近年まで接極的に発掘調査が続けられ、現在は「小田城跡歴史ひろば」として公開されている。こうした城跡には、人を集めるために遺構とは関係のない施設が設けられることも多い。しかし、「小田城跡歴史ひろば」では純粋に堀や土塁、あるいは櫓跡といった遺構のみが公開されており、戦国時代の面影を偲ぶことができる。

 

 城跡には、かつて関東鉄道筑波線が通り、本丸を線路が貫いていた。それが廃線となった今では、線路跡にサイクリングロード「つくばりんりんロード」が設けられている。サイクリングロードは本丸を迂回して整備されたので、遺構のなかを自転車で通るような興ざめなことにはならない。そういう意味からしても、小田城は、自転車で訪れやすい城であるといえる。

 

小田城の土塁
土塁は約2mほどの高さを誇る。左側は、つくばりんりんロード。

 

 この小田城を築いたのは、鎌倉幕府における十三人の合議制のメンバーにも選ばれた八田知家(はったともいえ)とされる。八田知家は、もともとは下野(しもつけ)国(栃木県)を本拠とした宇都宮氏の一族だった。しかし、常陸(ひたち)国(茨城県)を本拠に勢威を拡大していた佐竹氏が源頼朝に追討されたあと、常陸守護となったものである。八田知家は筑波山麓の小田に居城を構え、子孫は小田氏を称している。

 

八田知家
源頼朝挙兵時から従い、常陸守護に任じられるなど、大きな信頼を得ていた。(国立国会図書館蔵)

 

 常陸国は、平安時代から坂東平氏の一大拠点ではあったが、小田氏は鎌倉時代を通じて守護として常陸国を押さえることに成功した。小田城は常陸守護所であったとみられるが、残念ながらこのころの小田城がどのようなものであったのかについてはわかっていない。おそらくは、堀と土塁に囲まれた現在の本丸跡を中心とする方形館であったのだろう。

 

 南北朝時代に、小田氏は南朝方に従ったため、小田城は関東における南朝の拠点となり、南朝方の諸将も小田城に入っている。ちなみに、後醍醐天皇に仕えた北畠親房(きたばたけちかふさ)は、この小田城に滞在しているときに『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)の執筆を始めたといわれている。

 

 後醍醐天皇の死後に南朝方の勢力が減退すると、小田城は北朝による攻撃をうけるようになり、小田氏は北朝方に降伏した。このような経緯もあり、室町時代では佐竹氏が常陸国の守護となっている。佐竹氏は、清和源氏の流れをくんでおり、室町将軍となった足利氏の同族だったためである。こうして、室町時代の小田氏は、守護の佐竹氏に従うようになった。

 

 戦国時代の常陸国では、関東管領・上杉氏を追放した相模(さがみ)国(神奈川県)の北条氏が下総(しもうさ)国(千葉県)から進出を図り、その一方で、関東管領上杉氏の名跡を継いだ越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)が北条氏を駆逐するために関東に出陣してきていた。当初、小田城の小田氏治(おだうじはる/法号:天庵)は上杉謙信に従ったものの、対立する佐竹氏を牽制するため、北条氏に属すことにした。そのため、小田城は上杉氏や佐竹氏に攻められることになり、幾度か落城している。『小田軍記』や『小田天庵記』といった江戸時代の軍記物語などによると、小田城は9度も落とされたことになっており、そのたびに小田氏治が取り戻したという。9回落城したという軍記物語の記述をにわかに信じることはできないが、たびたび落城しているのは事実である。そのようなことから、小田氏治は「戦国最弱武将」と呼ばれることもある。

 

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏は滅亡し、北条氏に従っていた小田氏治は没落してしまう。そして、小田城は完全に佐竹氏の手に落ちたが、その佐竹氏も慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで積極的に徳川家康の味方をしなかったことで秋田に転封となり、小田城は廃城となった。ちなみに、江戸時代には小田城の支城だった土浦城が、この地域の中心的な城となっている。

 

小田城本丸
曲輪は土塁に囲まれている。背後の山は、手前が前山城のあった前山、奥が宝篋城のあった宝篋山。背後を山に守られた天然の堅城であった。

 

 このように、幾度も落城している小田城を、一般的に名城と呼ぶことは厳しいかもしれない。しかしながら、北側の前山には前山城、宝篋山には宝篋城という城が築かれ、残る三方は湿地という自然の要害に築かれていた。しかも、城域全体は三重の水堀に囲まれているうえ、堀底からは畝を設けた障子堀も検出されている。また、本丸の三方には、城の出入り口を守るとともに城から打って出るときの橋頭保として馬出が設けられてもいた。戦国時代における最先端の築城理念を取り入れていることからして、堅固であったことは想像に難くない。

 

小田城 西馬出曲輪
本丸の虎口(出入り口)を固めていた馬出。

 

 にも関わらず、小田城がたびたび落城しているのはなぜなのか。それは、防御性の問題ではなく、小田氏治の戦略であったのではあるまいか。徹底抗戦をして兵を失うよりは、頃合いを見計らって奪還したほうが、兵力を失わずにすむ。小田氏治は、城の長所も短所も知り尽くしていたにちがいない。奪還する自信があったからこそ、逃亡したのである。それだけ自らの城を信じていたということではないだろうか。

KEYWORDS:

過去記事

小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

最新号案内

歴史人2023年4月号

古代の都と遷都の謎

「古代日本の都と遷都の謎」今号では古代日本の都が何度も遷都した理由について特集。今回は飛鳥時代から平安時代まで。飛鳥板蓋宮・近江大津宮・難波宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京そして幻の都・福原京まで、謎多き古代の都の秘密に迫る。遷都の真意と政治的思惑、それによってどんな世がもたらされたのか? 「遷都」という視点から、古代日本史を解き明かしていく。