天下人・徳川家康のプライベートを暴く⁉ 家康の趣味趣向とは?
今月の歴史人 Part.1
2023年の大河ドラマ『どうする家康』で松本潤さんが演じることが決まった主人公・徳川家康。戦国時代に終止符を打ち、その後の260年ほどにわたる泰平をもたらした天下人として知られ、その事蹟や戦歴は華々しい。しかし、私たちが知るイメージは長い年月をかけて日本人が築き上げてきたものだ。ここで紹介するエピソードからは徳川家康という人間そのものを垣間みることができる。はたして真の家康とはどんな人物だったのだろうか。
■開明的で好奇心旺盛、そして根は真面目な徳川家康

徳川家康
事蹟や戦歴には輝かしい残す天下人であったが、プライベートでの家康の趣味趣向はどのようなものだったのか。(高貴徳川(代々)之写像/東京都立中央図書館蔵)
①戦国きっての時計マニア!?
家康は晩年になってから、時計に強い関心を持ったことが知られており、久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)には重要文化財の洋時計が所蔵されている。
慶長14年(1609)、373名を乗せたスペインの船が御宿(おんじゅく/千葉県御宿町)に漂着した際、本多氏が領主を務める岩和田(いわわだ)の人々が船員を救助した。救出から2年後の慶長16年、スペイン国王のフェリペ3世は、そのときのお礼として、この洋時計を家康に贈ったのである。
この時計は、ハンス・デ・エバロが1581年にスペインのマドリードで作製したもので、日本現存最古のゼンマイ式の時とき打ち付け時計として知られている。このほか、家康は砂時計、日時計を所有したといわれており、好奇心が旺盛だった。
②体に似合わず武芸の達人
家康は奥平久賀(おくだいらくが)から剣術を指南され、文禄3年(1594)5月に柳生宗厳(やぎゅうむねよし)から新陰流兵法の相伝を受けたという。あるとき宗厳は、京都で徳川家康に招かれ、無刀取り技を披露した。無刀取りとは、先に相手の懐に飛び込んで、刀が勢いを付けて振り下ろされる前に、相手の刀を取り押さえる技である。
家康は宗厳と手合わせをしたが、まったく何もできないまま、木刀をあっさりと奪われたという。家康は宗厳の剣の達人ぶりに、すっかり感じ入ったと伝わる。
また、家康は鷹狩り(鷹を使って鳥獣類を捕らえる)を好み、馬術の鍛錬にも励んだ。馬術は大坪流を会得し、鉄砲や弓術の技量に優れていたといわれている。
③阿弥陀信仰に傾倒する

日課念仏
徳川家康は諸宗派に対して公平に対したが、個人的には浄土宗に帰依した。これは南無阿弥陀仏の名号六文字を六段に記したと伝えられる。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
家康が信仰していたのは、浄土宗だった。松平氏の菩提寺は、愛知県岡崎市にある大樹寺(だいじゅじ)であるから、当然だったといえよう。
永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討った際、今川氏に与していた家康は、大樹寺で自害しようとした。
その際、住職の登誉智童(とうよちどう)に自害を思い止まるよう説得され、「厭離穢土、欣求浄土」の軍旗を授けられたと伝わっている。晩年の家康は、日課として南無阿弥陀仏を唱え、「南無阿弥陀仏」と記した自筆の日課念仏が残っている。
家康が亡くなった際、吉田神道の作法で遺体は久能山に葬られたが、大樹寺には位牌が祀られた。母・於大(おだい)の葬儀は京都の知ち恩院で挙行され、江戸の伝通院に葬られた。
④意外にも家康は開明派だった!
鎖国政策などで閉鎖的な印象が強い家康。しかし実は鎖国自体は2代・秀忠、3代・家光によって始められたもので、家康自身は海外のものをよく取り入れた開明派であった。家康が愛用したという鉛筆は、久能山東照宮に所蔵されている。この鉛筆は日本最古のもので、芯はメキシコの黒鉛、軸はアカガシの木が使われ、長さは約6㎝である。スペインまたは、メキシコ、フィリピンから贈られたと考えられている。
家康が使用したという眼鏡も、久能山東照宮に所蔵されている(目器という)。わが国の古眼鏡として極めて貴重なもので、レンズの直径は約4㎝、横幅は約9㎝の鼻にかけるタイプの眼鏡である。家康が晩年に使用したとされ、いずれも重要文化財に指定されている。家康は、このほかにもコンパス(金銀象嵌けひきばし)や天秤も所持していた。
⑤囲碁や将棋が好きだった

囲碁の興じる戦国時代の人々
家康の囲碁好きもあったのか、江戸時代に入ると囲碁の上手な者たちが幕府から俸禄を得るようになった。(『酒飯論』国立国会図書館蔵)
家康は、将棋や囲碁を好んだことで知られている。
家康の将棋の腕前はさておき、その保護をしたことは有名である。慶長17年(1612)家康は棋士の大橋宗桂(おおはしそうけい)に俸禄を与えた。宗桂の名は織田信長の名付けだという。同年、宗桂は本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)から将棋所を譲られ、1世将棋名人となった。以後、将棋は家元制となり、幕府の庇護を受けたのである。
天正15年(1587)、家康は囲碁で著名な本因坊算砂を京都から駿府に招いた。家康の女婿の奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は、京都で算砂に入門し、駿府に下向の際に連れてきたといわれている。慶長17年、算砂は宗桂と同じく、家康から俸禄を与えられた。
なお、徳川家康は算砂に対し、五子の手合割(ハンディ)だったという。
⑥耳学問が得意な家康
家康が学問好きだったことは、よく知られた事実である。
儒教の祖といわれる藤原惺窩(ふじわらせいか)は、家康の招きに応じて、講義を行った。以後、儒教が支配のイデオロギーとして機能したことは、周知の事実である。惺窩が辞したあとは、弟子の林羅山が後継者となり、秀忠、家光にも仕えた。
日本に漂着したイギリス人のウイリアム・アダムスは、家康に幾何学や数学、航海術などの知識を授けた。家康は好奇心旺盛だったので、興味を覚えたのだろう。
また、家康は『論語』、『中庸』『史記』、『貞観政要』、『延喜式』、『吾妻鏡』、『源氏物語』を講読し、江戸城内に紅葉山文庫という図書館を作るほど、知識欲があった。
監修・文/渡邊大門