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徳川家康は源氏の英雄・源義家の子孫にあたるのか?

「歴史人」こぼれ話・第26回


徳川家康の祖は、諸国を放浪後、三河国の松平郷に流れ着いた乞食僧であった。在原氏または賀茂氏の流れを汲む領主・松平信重(のぶしげ)に才を認められ、その婿養子となって松平親氏(ちかうじ)を名乗ったとされる。それにもかかわらず、家康の系譜をさかのぼれば、清和源氏の血脈に連なる源義家に繋がる。果して、その真相は?


 

徳川家康『徳川二十将』(部分)/東京国立博物館 ColBase

新田義重の子・義季の姓が「得川」だったことを利用?!

 

 徳川家康の祖は、徳阿弥という乞食(こじき)僧だったというのが通説である。諸国を放浪後、三河国の松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の流れを汲む領主・松平信重に才を認められて、その婿養子となって松平親氏を名乗ったとされる。

 

 それにもかかわらず、家康の系譜を辿れば、清和源氏へとたどり着くから不思議である。その中には、上野国新田庄を拠点とした新田義重(にったよししげ)や、その祖父で、武家の棟梁としてその名を轟かせた八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとのよしいえ)の名も見受けられる。いうまでもなく、清和天皇から数えて6代目にあたる、清和源氏の一流・河内源氏の嫡流である。

 

 武家としてこれ以上ないとも思えそうな錚々(そうそう)たる系譜に、驚かざるを得ないが、もちろん、これが捏造されたものであることはいうまでもない。「征夷大将軍に任じられる者は清和源氏の系統でなければならない」という不文律があったため、家康が強引に、自らの系譜を清和源氏の系譜に組み込んだといわれることが多いようだ。

 

 一説によれば、新田氏の系譜に連なる吉良家の系図を家康が買い取り、その見返りとして吉良(きら)家を幕府の式典作法を司る高家に任じた…と言われることもあるが、その真偽は分からない。

 

源義家『武家百人一首』玉蘭斎貞秀筆 国文学研究資料館蔵

 

幕府創設の源氏・足利氏と並ぶ新田系源氏として徳川氏を強調

 

 すでに家康の祖父・松平清康(きよやす)が清和源氏世良田(せらだ)氏を自称していたことから鑑みれば、自らの系譜を清和源氏に組み入れたのは家康ではなく、はるかそれ以前であったと見なすべきなのかもしれない。

 

 ともあれ、清和源氏の諸流の中から、徳川家が祖として選んだのが、前述の新田義重であった。その子・義季(よしすえ)が「得川(とくがわ)」姓を名乗っているが、この得川姓を後世の家康が徳川と改めて、自らの姓としたようである。

 

 義家の子・義国(よしくに)から分かれた、足利系の義康と新田系の義重。前者が室町幕府を起こした足利尊氏に繋がるのに対して、後者は松平清康を経て、家康へと繋がっていく。

 

 足利氏が打ち立てた室町幕府が滅んだ以上、征夷大将軍として新たな幕府を開くにふさわしいのが、もう一方の新田氏の後裔(こうえい)である自分(家康)であるというふうにも、読み取れてしまう系譜であった。

稲村ヶ崎を太刀奉納で突破し鎌倉北条氏を倒した新田義貞。
『近世報国百人一首』歌川芳虎筆 国文学研究資料館蔵

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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