上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相【前編】
歴史研究最前線!#007
天下分け目の関ヶ原合戦に、のちに徳川2代将軍となる秀忠が間に合わず参加できなかったことはよく知られている。真田昌幸・信繁(幸村)親子率いる上田城との攻防に時間を要していたとされるが、実際の様子はどうだったのだろうか?
「表裏」の人・真田昌幸が関ヶ原前に下した決断
関ヶ原合戦前夜において、真田昌幸が石田三成挙兵の一報を知ったのは、下野犬伏(栃木県佐野市)の地であった。慶長5年(1600)7月21日のことである。これまでの流れを考慮すると、真田家は東軍に味方するのが自然なように思える。
しかし、昌幸は「表裏」の人と称される策略家であり、思い切った行動に出る。それは、長男・信幸(信之)はそのまま東軍に従い、昌幸自身と次男・信繁(幸村)が上田城に戻って西軍に味方するというものであった。これが俗に「犬伏の別れ」と称されるエピソードである。
ちなみに、信幸の妻は徳川家康の家臣・本多忠勝の娘で、信繁の妻は西軍に与した大谷吉継の娘だった。そういう基準で、東西に分かれたと言われている。
なぜ昌幸は、このような判断を下したのであろうか。仮に、3人が東軍に与して敗北を喫した場合、真田家は滅亡してしまう。しかし、それぞれが東西両軍に分かれた場合、一方が負けても家は残る。そうした判断ではないか。要するに昌幸は、真田家の永続を願って、究極の決断を下したと推測される。
8月24日、約3万4千の軍勢を率いた秀忠は宇都宮を出発し、中山道をひたすら行軍した。そして、8月28日に松井田(群馬県安中市)を経て、9月1日に軽井沢(長野県軽井沢町)に到着したのである。
秀忠の進む中山道の先には、真田昌幸と次男・信繁が籠もる上田城があった。9月2日に小諸(長野県小諸市)に着くと、秀忠は昌幸に対して、東軍に与するように勧告したのである。実質的な降伏勧告だ。
説得に向かったのは、真田信幸と本多忠政だったが、百戦錬磨の昌幸は返事を先延ばしにし、籠城のための時間稼ぎを行った。9月4日以降、昌幸は挑発的な回答を行ったため、翌日から秀忠は昌幸方の城砦(じょうさい)を攻撃するなどした。以後も両軍の小競り合いが続いたものの、昌幸の戦いぶりは実に巧妙であった。
軍記物語などによると、上田城外へ出た真田軍は、徳川軍に攻撃されるとすぐさま城内に逃走した。しかし、それは昌幸の作戦で、徳川軍が大手門へ近づくと、城内の鉄砲隊が一斉に射撃をして、徳川軍を蹴散らした。このような奇策によって、真田軍は徳川軍を相手にして、一歩も引けをとらなかったといわれている。
とはいえ、秀忠はいつまでも上田城を攻めている場合ではなかった。上田城を血祭りにあげ、その勢いでもって関ヶ原に向かい、西軍を蹴散らさなくてはならない。上田城が一向に落ちないことにより、秀忠のイライラはつのっていった。
【主要参考文献】
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)
渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)