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徳川四天王 随一の出世頭 赤備え軍団・井伊直政(いいなおまさ)

徳川家康・その一族と家臣団 第3回

先見性・政治力・視野の広さ、家康からの信頼度ナンバーワン

 

容姿端麗であった直政は、その小姓時代、家康の寵童であったとも伝わる。長じて戦功を重ね、武田家旧臣で構成された隊の部隊長に命じられた。この直政直属の部隊こそ、武田軍の赤備えを継承した「井伊の赤備え」であった。イラスト/さとうただし

「四天王」という呼び方は、天に住む仏教の守護神(持国天[じこくてん]・増長天[ぞうじょうてん]・広目天[こうもくてん]・多聞天[たもんてん])をいい、我が国でも信仰されてきた。この守護神になぞらえて「~~四天王」という呼び方がなされ、特に戦国時代に器量・実力のあった武将を集めて「四天王」と称するようになった。特に有名なのが家康の最強家臣を「徳川四天王」と呼ぶことであろう。

 

 徳川四天王とは、酒井忠次(ただつぐ)・本多忠勝(ただかつ)・井伊直政・榊原康政(さかきばらやすまさ)を指す。中でも最年少でありながら家康からの信頼ナンバーワンであり随一の出世頭が、井伊直政であった。

 

 直政の井伊家は平安時代末期から遠江(とおとうみ)・井伊谷(いいのや)に本拠を持つ名家であったが、臣従していた今川家からは軽く冷たく扱われ続けた。直政は永禄4年(1561)2月9日、井伊直親(なおちか)の嫡男(ちゃくなん)として生まれたが、2歳の時に父を今川氏真(うじざね)の家臣に討たれる。井伊家は叔母・次郎法師直虎(なおとら)が当主となった。直政の苦労を知った家康は、鷹狩りの折に浜松城下で15歳の直政と対面し、「おまえは私のために命を落とした者の倅(せがれ)である。それに報いなければならない」として、自分の幼名・竹千代にあやかって万千代(まんちよ)と名乗るように命じ、父祖の地・井伊谷に2千石の土地を与えた。

 

 直政の初陣は天正4年(1576)2月の武田勝頼(かつより)との芝原合戦である。この戦いで直政は、家康の寝所まで忍び入った武田の間諜(かんちょう)数名を討ち取り、その手柄によって3千石に加増された。その後も直政は、若くして数々の合戦に参加。天正8年の高天神城(たかてんじんじょう)奪回戦でも忍びを使って敵方の水の手を断つという功績を上げた。

 

 本能寺の変の後の家康の「伊賀越え」でも四天王の一人として家康を護衛し、小田原・北条、越後・上杉との三つ巴の甲州・信州争奪戦(天正壬午[てんしょうじんご]の戦い)でも、武功を立てるとともに、北条との講和の使者も務めた。家康は直政が政治・外交面でも役に立つ文武両道の武将であることを知って、その後も直政を自在に使うようになった。

 

 武田家の滅亡後に、武田旧臣たちを大量に召し抱えた家康は、武田の赤備え(刀槍から甲冑まで全身を赤一色にした飫富虎昌[おぶとらまさ]・山県昌景[やまがたまさかげ]らの最強部隊)部隊を編成するように命じ関係する旧臣たちを預けた。「井伊の赤備え」の始まりだった。

 

 天正12年(1584)、秀吉との小牧・長久手合戦での武功や直政の先見性・政治力・視野の広さを買った家康は、天正13年には徳川全軍2万5千のうち、1万を直政に預けた。小田原の陣後に関東に入部した家康は、30歳の直政に上野・箕輪12万石を与えた。これは徳川家臣団随一の石高であった。

 

 慶長3年(1600)9月、関ヶ原合戦には娘婿に当たる家康の四男・松平忠吉(ただよし)の初陣の後見としても出陣した直政は、乱戦の中で島津義弘(よしひろ)の中央突破の際に銃撃され、2カ所を負傷。合戦後には「戦功随一」として佐和山城主18万石(後の彦根城主)に封じられるが、その2年後、銃創が元で2年後に42歳の若さで死亡する。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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