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秀吉の養子になった家康の二男 越前宰相・結城秀康

徳川家康・その一族と家臣団 第2回

11歳で豊臣秀吉の人質に 関ヶ原合戦では上杉景勝の西上を阻止

 

武将として器量は高く、家康もその能力を認めていた。天下分け目の戦いとなった関ヶ原合戦の際、撤退する本隊とわかれ別動隊を組織。宇都宮に留まり上杉景勝や去就の定かではない伊達政宗への抑えとなった。イラスト/さとうただし

 徳川家康の二男に生まれながら、生涯「自分は父親から嫌われている」という意識を持って生きたのが結城秀康(ゆうきひでやす)であったという。そうした父子対立の逸話がいくつかあるが、ほとんどが近世初期になってから成立した話であり、その事実は不明である。

 

 秀康は天正2年(1574)2月8日、浜松城の御殿女房(家康の正室・築山殿の侍女)だったお万の方を母親として生まれた。幼名を於義丸(おぎまる)という。家康の重臣・本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)のもとで養育された。確かに家康には「望んで生まれた子」ではなかったらしい。

 

 天正12年(1584)11月、秀吉との小牧・長久手の戦いで和睦が成立すると、家康は秀吉に人質として11歳の於義丸を送ることにした。既に長男・信康は信長の命令によって命を失っており、於義丸の下には6歳の長松(後の秀忠)がいたが、あえて家康は年長の於義丸を人質とした。

 

 於義丸は、秀吉の養子となって名前も家康と秀吉から一字ずつ貰って「秀康」とした。秀康の荒い気性を示す、こんな逸話が残っている。16歳の秀康が伏見の馬場で馬に乗っていると、秀吉の家臣が秀康に競い掛けた。秀康は「中間・小者のくせに無礼者め」と切り捨てた。この話を聞いた秀吉は「儂(わし)の家臣であろうと秀康と争うなど以ての外」として秀康の罪など問わなかったという。

 

 その初陣は秀吉の九州侵攻で、豊前・岩石城(ぶぜん・がんじゃくじょう)攻めに参戦した。天正18年(1590)小田原・北条氏が滅びると、秀康は下総(しもうさ)・結城晴朝(はるとも)の養子となり、10万石余りを扶持(ふち)されることになった。結城秀康と、ここから名乗りを変える。

 

 慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦が起こる。秀康は秀忠とともに徳川勢3万余の副将として宇都宮に留まり、関東諸将を抑え、会津・上杉景勝(かげかつ)の西上を阻止した。合戦後、秀康はその功として越前68万石を与えられた。これは豊富恩顧の大名や特に加賀・前田家監視の役割を担うもので、家康の期待の大きさを示している。

 秀康はいつまで「結城姓」のままであったのか。子孫は「松平姓」を名乗り続けているが、『徳川諸家家譜』によれば慶長9年には秀康の四男・直基(なおもと)が結城家を継承したのに伴って秀康は「松平」ではなく「徳川」に復姓したとされる。

 

 秀康は慶長12年(1607)閏(うるう)4月3日、34歳で病死した。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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