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戦国を勝ちあがった苦労人 ~ 初代・徳川家康 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶慶まで〜 第2回 

徳川四天王を筆頭に多くの知謀・剛勇の将とともに徳川幕府の礎を築く

映画、ドラマのイメージから、悪役キャラが定着していた家康。近年その功績が再評価され、2023年にはNHK大河ドラマの主役に抜擢された。

 三河・岡崎を基盤にした弱小国人(地方豪族)・松平氏に生まれた家康(竹千代→元康)は、6歳で織田氏の捕虜にされ、8歳になって今川氏の人質となって12年間、駿府(すんぷ)で暮らした。この間に駿府の岡崎城は今川氏の支配となったが、家臣団は結束して家康の帰還を待ち続けた。永禄3年(1560)5月、桶狭間合戦で今川義元が織田信長に討たれると、家康は岡崎城に戻り、その後は信長と同盟する形で今川氏からの独立を果たした。

 

 ところが領国経営の途次、領内の一向一揆門徒が在地の武士たちと手を結び、武力抵抗という挙に出た。この三河一向一揆に手を焼いた家康に刃向かった武士の中には、後に家康の謀臣(ぼうしん)となる本多正信もいた。

 

 弱小領主であった家康は、周囲を強力な敵に囲まれていた。中でも甲斐の武田信玄は最強の敵であった。信長と共に連携して武田との協調を目指したこともあったが、結局この「織田・徳川・武田の三国同盟」は雲散霧消(うんさんむしょう)する。信玄との抗争で最大の激戦は元亀3年(1572)12月の三方ヶ原合戦である。西上の途に着いた信玄は2万5千の大軍で遠江に侵攻し、家康の浜松城を横目に過ぎていく。これを知った家康は織田の援軍3千を加えた1万1千で武田軍に立ち向かい、散々の敗北を喫した。この4カ月後に信玄は信州・粉場で病死する。家康は、最も信玄をおそれながら、最も信玄に学んだ「直弟子」であった。

 

 その後、長篠合戦・高天神城(たかてんじんじょう)奪回戦などで武田勝頼(かつより)と戦い、信長の要請に従って姉川合戦でも徳川軍は活躍する。武田家を滅ぼした天正10年(1582)6月、本能寺の変が起きて信長は自刃。その後の天下人は秀吉となるが、小牧長久手の戦い・北条討伐の小田原合戦などを経て、家康は関東に国替えとなり、江戸を開発する。秀吉没後に関ヶ原合戦があり、家康の労苦は一挙に花開いた。

 

 家康は「徳川四天王」とされる酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政などが常に活躍し、他にも多くの知謀・剛勇の将を抱えていた。徳川幕府を開くと、本多正信・南光坊天海(慈眼大師・じげんだいし)などの参謀が加わり、徳川幕府の基礎を固めた。だが、家康側近の内側では武功派・大久保忠隣(ただちか)と謀臣・正信との確執が強まり、それが経済官僚でもあった武田旧臣の大久保長安事件をきっかけにして、忠隣失脚に繋がることになる。

 

 しかし、捕虜や人質という辛酸を舐めた苦労人の家康だからこそ、これ以後2百数十年に渡る徳川(江戸)幕府という「権力」を創り上げることができたのだった。

 

 「創業と守成、どちらが難しいか」という『貞観政要』にみえる唐・太宗の問い掛けがある。創業は新しく事業を興すこと、守成はそれを維持し発展させることをいう。家康はまさに「創業の人」であり、家康が後継者に据えた秀忠こそ「守成の人」となる。

 

 元和2年(1616)2月、家康は病没。75歳の生涯であった。翌年、家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号を受ける。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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